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高鉾村
【たかほこそん】


(近代)明治22年~昭和30年の勝浦郡の自治体名。勝浦川上流山間部に位置する。正木・傍示両村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。役場を正木に設置。明治24年の戸数392・人口2,310(男1,185・女1,125),厩13,寺3(徴発物件一覧表)。同30年頃から山林を開墾して畑やミカン園を造成することが盛んとなり,明治39~40年には2町8反余の畑と6反余のミカン園が造成され,ミカン園は正木が中心であった。当村では米・麦・豆類・甘藷のほか温州ミカン・夏ミカン・柿・ネーブル・楮・三椏・生糸などの生産がみられた。明治44年の産物は,米1,850石・麦790石・木材約32万貫・板6.6万貫・温州ミカン約13万貫・豆類・甘藷などで,米の不足分は徳島市・生比奈村などの米作地帯から移入。大正5年に福原街道が完成する以前の物資の輸送は,木材類は筏を組んで勝浦川の送流によって徳島市へ搬出し,特産の温州ミカンをはじめとする他の物資は,上流部へは駄馬輸送,下流の平地部へは横瀬まで荷車で搬出され,同所から勝浦川の舟運を利用。一方,移入物資のうち洋反物・呉服などの衣類と魚肥料・大豆粕・化学肥料などの金肥はすべて徳島市から,塩は徳島市・撫養から移入。造林事業も盛んとなり,明治31~35年に植樹補助金の下付申請を県知事に出し,補助金157円で杉6万5,069本・檜8,325本を植林した。また当村では江戸期から薪炭の生産が盛んであった。大正9年の主要生産物は,米6万9,411円(1,855石)・麦6,709円(457石)・養蚕6,710円・果実2万566円・木材7万1,000円(1万2,400石)・薪3万6,700円(6万3,860棚)・木炭5万2,275円(25万8,900貫)で木材・薪炭・米・ミカンが重要であった。昭和22年の米の作付面積は113町余・収穫高1,683石余,反収1石4斗9升であった(上勝町誌)。当地は地質学的には中生層の地層が発達しており,中生代白亜紀のトリゴニア化石とシダ化石が分布し,これが堆積してできた石炭層があるため,傍示谷出口付近に高鉾炭鉱,正木ダムサイト付近に勝浦炭鉱・辰ケ谷炭鉱があり,粘結性の強い良質の石炭を産出していたが,昭和20年代に大部分が閉山した。高鉾炭鉱の全盛期は昭和24年頃で,従業員200人,月産1,500~2,000tを産出。勝浦炭鉱は昭和14年に試掘を開始し,同36年に休山状態となる。辰ケ谷炭鉱は県下最古の採掘権を有する炭鉱であり,昭和23年に休業。鉱区内には標高500mの山地で,立川層が分布し,泥岩を上下盤にして数層の炭層があり,炭丈は0.1~21.2mと膨縮が激しい。大正4年の戸数376・人口2,200。世帯数・人口は,大正9年389・2,156,同14年395・2,241,昭和5年392・2,256,同10年407・2,030,同15年412・2,048,同25年496・2,649。昭和30年上勝町の一部となり,村制時の2大字は同町の大字に継承。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7196480