徳島藩
【とくしまはん】

旧国名:阿波
(近世)江戸期の藩名。外様の大藩。城下町徳島が渭津とも称されたため,渭津藩とも呼ばれる。天正13年豊臣秀吉は四国平定のとき戦功のあった蜂須賀正勝に阿波国を与えようとしたが,正勝は高齢を理由に嫡子の家政を封じるように懇願したため,秀吉は同年秋に家政を阿波国に封じた。家政は旧領播州竜野5万余石の小大名から一挙に17万余石の大守となり,板野郡内にあった赤松則房の置塩領1万石と毛利兵橘領1,000余石(ともに板野郡)を除く阿波国を領有した。家政は初め名東(みようどう)郡の一宮城(現徳島市)を居城とした。しかし一宮城の位置は阿波一円の支配に適せず,また水軍の展開にも難があることから,その直後に吉野川デルタ地帯の徳島に築城を始め,翌14年には城の主要部分を完成して居城を移した。同時に城下町の建設をすすめ,明治維新まで徳島城が領国経営の中心となり,徳島城下を包括する御山下は藩内の政治・経済・文化の中核として発展した。阿波に入った家政は積極的に領国経営を推し進めた。その領国経済の主要部分を占めた平野部農村では,戦国期に活躍した小領主の多くが,天正10年の長宗我部元親の阿波侵攻によって,中富川合戦や勝瑞城の攻防戦で討死したり,他国に逃亡したりしていた。そのため蜂須賀氏のすすめる近世化政策,とくに太閤検地の実施にも抵抗することなく,同17年には検地が順調に終了した。一方山間部は,山間土豪たちが長宗我部氏から在地支配を安堵され,祖谷山をはじめ四国山地の各地に割拠していた。この山間土豪たちは,近世化政策に徹底して抵抗し,6年間にも及ぶ土豪一揆が続いたので,蜂須賀氏の山間部支配を困難にした。同時に藩外では同15年から島津征伐,小田原征伐,文禄と慶長の2度の朝鮮出兵など,蜂須賀氏は相次ぐ過重な軍役を負担しなければならなかったので,不足する下級兵力を補充するため,奉公人(知行付百姓)を動員することを不可欠とした。そのため農業生産の発展が妨げられ,兵農分離の実現を遅らせる原因となっていた。このような状況の中で慶長5年の関ケ原の戦が起きた。この戦いは蜂須賀家を窮地に追い込んだ。秀吉の恩顧を受けてきた家政は,そこで領国を豊臣秀頼に返還し,自らは顧門僧泰雲とともに高野山に隠れ,剃髪して蓬庵と名乗ったが,嫡子の至鎮には家臣を預けて徳川家康の下に参じさせた。その結果,合戦後に阿波国は改めて至鎮が拝領した。徳島藩は,この至鎮の阿波拝領をもって立藩されたとみなすことができる。至鎮はその後,元和元年の大坂夏の陣に戦功をあげ,2代将軍徳川秀忠から淡路国を加増された。その頃までには置塩領・兵橘領とも藩領に組み込まれ,ここに阿波・淡路2か国の25万石を領することになった。こうして成立した徳島藩は,吉野川流域の阿波北方の平野部に展開する藍作地帯,東北部の撫養塩田地帯,西部山間の煙草耕作地帯,那賀川下流域の水田地帯,那賀川上流の林業地帯,海部郡沿岸の漁業地帯および米作と漁業の淡路島というように,地形的にも産業構造のうえにも複雑多岐な地域を包含することとなった。その徳島藩の経済を支えた主たる基盤は芳水七郡ともいわれた藍作地帯で,藩政中期以降は阿波藍が全国市場に進出し,しばしば藩の経済危機を藍商たちが救う結果ともなった。また那賀川下流域の米作地帯は,商業的農業を主とした藍作地帯とは異質な発展を示した。しかし祖谷山をはじめ四国山地の急峻な山間農村は,18世紀末頃まで有力名主層による名子百姓への支配を強く残す家父長制的経営のもとで,名子たちは年間60日に及ぶ過重な賦役労働が義務づけられ,名子百姓の再生産を妨げていた。寛政年間を画期として山間部への煙草栽培の普及により,たちまち名子百姓の賦役全廃と伐畑の保有権を主張する村方騒動を激化させ,山間部の名主支配を後退させ,賦役半減を勝ち取るなど19世紀に入って,近世的農業経営に移行し始めた。藩政自体は,藩の祖法とされた元和・寛永年間の御壁書および裏書を軸に領国支配の体制が確立されたが,とくに地方支配については,明暦・万治期の総棟附改めの実施によって,村落内における本家百姓を壱家として把握し,壱家の下に血縁・非血縁の隷属分家を小家とし,小家に対する壱家の掌握力を強めるとともに,藩に対する壱家の責任を強める壱家↑小家体制の確立をめざし,税収入の安定化がはかられていった。また藩機構は,はじめは藩主の主導のもとに展開されたが,2代藩主の忠英は藩祖家政の他界した寛永15年を契機として,在来の軍事優先体制から経済優先の官僚組織の充実に転換しようとした。それに反対する老臣もあって,とくに海部城番の家老益田豊後は,海部郡の分藩を老中に働きかける動きを示したが,忠英がこの豊後を改易した。益田豊後事件は,藩政転換期を象徴する重要な事件であった。そしてこの体制の下,とくに農政面では,米の絶対量が不足していたため,藍・塩・煙草などの商品作物の生産奨励を核として展開されたが,それが早期の農村に対する商品貨幣経済の波及となり,農村分解の主要因となった。藩政に占める藍作地帯の重要性が次第に高まるなかで,元禄期から農村分解は激化の一途をたどり,大藍師や藍商資本による小農支配が進み,幕藩制を支える石高制や身分制の動揺を招き,同時に藩財政も窮乏化が目立ちはじめた。そこで藩は,享保18年に藍政改革を実施しようとしたが,激しい総百姓一揆の抵抗にあって改革を断念した。宝暦6年にも10代藩主重喜が藍の取引きに介入しようとしたが,五社宮一揆によって後退させられた。そのため藩は明和改革で打開をはかる方法として,藍商資本に癒着し,小農を切り捨てる政策を実施に移したが,それが大藍師による小農の製藍労働組織への吸収を早め,また藍商資本の土地集積を拡大させ,地主制展開の準備が着々と進められた。明和改革はまた藩政機構の大改革をめざしたので,家老山田織部を中心とする老臣たちが反発し,その施政が不当として重喜は藩主の座をおろされた。11代藩主治昭は,たがの緩んだ地方支配を強化しようと,寛政改革をすすめ祖法回帰の反動政策を推進したが,その過程で能吏として登用された佐和滝三郎が海部郡代に就任した。佐和は改革の先兵を自負し,郡内農村に年貢米の「一粒選り」という過酷な仕法を強制した。これに反発した海部郡浅川村(現海南町)と牟岐村の百姓たちは,享和元年に土佐藩領へ大挙逃散した。藩は佐和を板野郡代に転出させるが,やがて逃散発生の責任を佐和一身に負わせ,佐和は投獄の上で士分まで奪われ牢舎で狂死してしまった。この事件に象徴されるように改革の実はあがらず藩財政も窮乏化が深まっていった。天保年間に入ると,大藍商の志摩利右衛門を勘定方に登用し,藩債整理を中心に財政改革を実施した。それは豪商たちからの献金によって負債を整理しようという内容で,負債整理はすすんだが,根本的な改革ではなく,また藩は豪商との癒着を深め,藩の地方支配を弱めさせ幕末の政局への対応を鈍らせていった。藩はまた名主を介して農民を掌握していた山間部で,寛政期から村方騒動が激化したことを背景に,名子たちの自立をすすめていた煙草作農民に対して収奪の強化をはかった。また上郡地方では庄屋や高利貸商人を煙草裁判役に任じて,小農から厳しく取引税を徴収することを命じ,また米が不足する煙草作農民の年貢を指紙で上納させた。指紙は相場の変動が激しく,年貢の納期には高騰するので,小農にはきわめて不利であった。そこへ連年の凶作と物価上昇が追い打ちをかけ,困窮した三好郡の山間部では,天保12年の年末に,山城谷百姓631人が隣藩今治領の上山村へ逃散した。この事件が解決した翌13年正月,三好・美馬・阿波・麻植(おえ)の各郡と板野郡宮川内村に至る阿波北方の山間部で,参加人員数万という徳島藩最大の上郡一揆が起こった。その激しい打毀は藩当局を動揺させたが,とくに美馬郡重清村の淡路洲本城代稲田家山奉行と年貢取立役の家臣宅が打ち壊され,稲田家に与えた打撃は大きかった。稲田家の主たる給地は,阿波では美馬郡に集中していた。そこで稲田家の家老井上九郎右衛門を筆頭に,重役たちを洲本城下に置き,阿波の給地支配のため猪尻村には会所を置き,年貢徴収を,また山間給地に山奉行を配していた。天保期には厳しい稲田家の給地支配が一揆発生の原因となった。打毀の対象とされた理由はその点にあった。この一揆を体験した稲田家臣,とくに美馬郡で取り立てられた猪尻侍たちのなかには,その後に尊攘運動に参加する志士も輩出した。それには今1つの要因として海防問題があった。文政12年の海部郡牟岐(むぎ)沖に黒船が接近した事件を契機に,藩は海防の重要性を自覚し,公儀の要請もあって砲台築造や海防体制の強化をはかった。とくに嘉永6年の黒船来航を背景に淡路沿岸の防衛を洲本城代の稲田家に命じた。稲田家では,兵員不足を給地農民の動員で補充し,これら農民を譜代家来に取り立てた。こうして海防の第一線に立たされた稲田家臣たちは,外圧の危機を自覚していった。そこで,藩の中枢が公武合体路線で固まっていたのに対して,稲田家主従は独自の討幕運動をすすめていった。これは幕末徳島藩の政治過程で注目される動きで後世に大きい影響を与えた。13代藩主斉裕は兵制改革をめざす準備を命じたが,これは計画倒れに終わり,慶応3年11月28日に撫養(現鳴門市)から始まった「ええじゃないか」は,たちまち阿波全域に広がりをみせ,封建的な拘束からの解放を求める民衆は,世直りを期待して踊り狂い,無銭旅行の金毘羅参りや伊勢への抜け参りに集団で繰り出した。こんな狂乱状態の裏側では,着々と討幕の行動がすすめられ,年末には「ええじゃないか」も止んだ。この民衆の行動は幕藩制下に蓄積された巨大なエネルギーを発散しただけで,何をもたらしたのか評価することもできない。徳島藩ではこのような大混乱のなかで斉裕が死亡し,14代藩主となった嫡子の茂韶は,戊辰戦争に討幕の側に参加するが,すでに雄藩への道は固く閉ざされていた。その後明治2年の版籍奉還によって蜂須賀家による約300年の阿波領国は幕を閉じた。明治2年6月24日に茂韶は,明治政府から版籍奉還を命じられ,新たに徳島藩が置かれて知藩事に任命された。阿波国と淡路国のうち三原郡を管轄することとなり,徳島城を公廨とする三治体制下の藩政が展開された。すでに同年1月2日に藩制の機構改革に着手した茂韶は,仕置と年寄を廃止して新たに執政を頂点とする職制に切替え,同月28日に版籍の返上を政府に上表していたほどで,版籍奉還後の藩政は整えられていた。8月に職制を大改革し,総政・民政・会計・軍政の4局と,総学・風憲・刑法の3司を置いて,秩禄改正・身居人の解放・民政掛の設置,村役人制の廃止などに着手し,明治3年9月には市中制法と郡中制法によって藩の執行体制が整備された。この相次ぐ改革のうち秩禄処分によって,旧藩の筆頭家老で1万4,000石の稲田九郎兵衛は一等士族で1,000石の現米支給となり,多くの家来も陪臣であったというだけで士族とされず卒族とされた。それに不満をもつ旧稲田家来たちは,幕末における稲田家主従の討幕派としての働きを理由に,知藩事と政府に対して,士族編入,淡路の徳島藩からの分離,稲田九郎兵衛の知藩事任命という運動を続けた。これに対して藩兵と淡路の農兵隊は知藩事に対する不忠の行為と断定し,稲田家の本拠である洲本の稲田家中が集住する屋敷を襲撃し,多くの死傷者を出す大惨事が発生した。美馬郡脇町の襲撃は中断されたが,稲田家の旧家来が大挙して高松藩に逃亡するという事態となった。稲田騒動とか庚午事変と呼ぶこの大事件は,稲田旧家来を士族として北海道移住を命じ,決着がついたが,また同9年に淡路国が兵庫県に管轄される遠因となったともいわれている。こうした大事件を経て,同4年7月14日の廃藩置県によって徳島藩が廃されて徳島県が置かれた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7196683 |