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中枝村
【なかえだそん】


(近代)明治22年~昭和29年の麻植(おえ)郡の自治体名。吉野川支流の川田川上流域に位置する。四国山地北部,焼山寺山脈の奥野山や焼山寺山の山塊の間を,川田川がⅤ字状に深く浸食して横谷を造り,人家は山の中腹に展開する。中村山・別枝山の2か村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。村名は,合併両村の合成地名による。役場を別枝山字大神に設置。明治24年の戸数547・人口3,124(男1,575・女1,549),寺2,学校2,水車場3(徴発物件一覧表)。地勢が急峻なため,「耕して天に到る」と称されたように,山腹に沿って頂上まで狭い段々畑が拓かれているが,土壌や肥料が流失し,労働の多い割には収穫は少ない。藍作・養蚕のほか麦・イモ・粟・ソバ・豆類を栽培,谷川沿いでは水田耕作が行われた。明治28年インド藍が,同35年にはドイツの化学染料が輸入されて,藍作は大正初年の一時期を除いて,まったく行われなかった。代わって養蚕が盛んになり,大正元年三山村種野山の川俣に三山煙草取扱所が置かれて,当地にも煙草栽培が普及した。明治末から大正期に麻植郡役所は,「山村開発は道路の整備から」の方針を立て,明治42年国鉄徳島本線湯立駅(阿波山川駅)から剣山麓に至る剣山街道が別枝谷沿いに,大正6年山瀬川俣線が種野谷川沿いに,同12年東山山瀬線が東山川沿いに開通して車両による木材・薪炭・葉煙草の積出しや,生活物資の搬入が可能になった。元禄3年開坑した野々脇鉱山は,明治30年頃から本格的に採掘され,昭和16年には鉱石搬出の自動車道も開通,同26年には粗銅生産量9,521t,従業員約85人であった。大字別枝山は明治25年小学校を東西に分けたが,同30年字大神に校舎を新築して両校を合併した。同35年村役場を字平に建て,同45年小学校も平に移転。大正2年同所に巡査部長派出所が置かれ,郵便局・登記所もあるほか商店も多く,字平は村の中心となった。大正元年の戸数563・人口3,360,世帯数・人口は,同13年549・2,852(男1,471・女1,381),昭和28年555・3,213(男1,618・女1,595)。昭和30年1月1日美郷(みさと)村の一部となり,2大字は同村の大字に継承。なお,この際中村山のうち字二戸・南二戸・今丸東野々脇・西野々脇・木中の通称南浦地区は木屋平村に編入。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7196751