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宮浜村
【みやはまそん】


(近代)明治22年~昭和31年の那賀郡の自治体名。那賀川上流山間部に位置する。拝宮・日真・東尾・菖蒲・檜曽根・長安・小浜・臼ケ谷・桜谷・水崎・音谷の11か村が合併して成立。旧村名を継承した11大字を編成。村名は,旧連合村の村役所があった拝宮村の「宮」と小浜村の「浜」の合成地名。村役場を小浜に設置。明治24年の戸数296・人口1,514(男794・女720),学校2,船10(徴発物件一覧表)。戸数・人口は,明治32年298・1,522,大正4年288・1,509。昭和4年海部郡下木頭村を合併。同村の大字を継承した5大字を加え16大字となる。同年の世帯数447・人口2,565。当村の産業は農林業を主としているが,明治中期頃までは造林面積もあまり増加がみられず,農業も那賀川沿岸に点在する河岸段丘や山地傾斜面の開墾地などで,焼畑農業が多く行われ,収穫量は少なかった。水田は石垣で支えられた狭小な棚田が多く,農耕に要する労力に比べ収穫は少なく,畑地も同様で,山麓傾斜地では表土や土壌の流乏を防ぐための労力が大きかった。焼畑農業は明治初年から大正期までひろく行われ,田畑で米・麦・稗・粟・蕎麦・大豆・小豆・玉蜀黍・芋などを作り,牛を飼い,茶・椎茸・木炭・太布などを生産し(那賀郡村誌),和紙の原料である楮・三椏や煙草などが明治期~大正期に多く栽培されていた。また拝宮村の拝宮西条柿(吊し柿)も著名な産物で,大正期から昭和初期にかけては養蚕業も行われていた。昭和4年の田117町余・畑1,359町9反余,山林2,814町8反余・原野3町9反余,稲の作付けは101町3反・収穫量1,011石,麦の作付面積59町3反・収穫量749石,養蚕戸数40戸,繭の産高346貫などがみられる。また昭和12年の田111町1反余・畑861町5反余・山林3,309町4反余・原野4町9反余,稲の作付反別101町7反・収穫量1,075石,麦の作付面積60町1反・収穫量621石,養蚕戸数36戸,繭産高334貫となっている(県統計書)。当地一帯での造林は,明治29年の林業組合設立の頃から本格的に始まった。日清・日露の戦争を2つの頂点とする山林地価の高騰や木材需要の増大と価格の上昇に支えられ,村内外の大地主の集中所有が促進された。天然の雑木林を伐採して焼畑農業を行うよりも有利で,当村も大正13年より17.37haの宮浜財産区有林を直営管理するようになった。明治36年頃から組織的な流筏が行われるようになり,同37年那賀川運材業組合が結成され,那賀川上流の各支流から本流に流し出された木材は小浜の谷口の土場に集積されて筏に組まれ,那賀川下流の古庄・中島浦まで10里余を平均2日がかりで乗り下る。谷口は宮浜村の木材集積地・筏組場・渡船場として栄えた。明治43年徳島水力電気により出力700kwの桜谷第1発電所が完成し,桜谷付近に初めて点灯した。その頃の桜谷には,桜谷郵便局・桜谷尋常小学校・富岡区裁判所桜谷出張所などがあり,小浜とともに宮浜村の文化の一中心地を形成していた。明治45年桜谷堰堤工事完了。大正3年桜谷旧トンネル開通。同11年電力需要の増大のため桜谷第2発電所が完成。同年明正銀行桜谷支店が開設され,徳島自動車会社のバスが徳島から宮浜村に入り桜谷・小浜の谷口に至り,翌12年桜谷局に電話開通するなど桜谷付近は活況を帯びた。同15年の和紙生産戸数27,生産高は470〆で,これは県生産高の6.38%にあたり,生産額7,160円(木沢村誌)。昭和22年の職業別人口は,農業769・林業363・製造工業104・自由業36・公務および団体職員32・商業20・運輸通信業18・サービス業18,ガス・電気・水道業12,鉱業3・水産業2・その他の産業9・不就業者745を数える(国勢調査)。昭和20年代の農作物は,水稲・裸麦を主とし,甘藷・馬鈴薯・大豆・小豆・玉蜀黍・里芋・蕎麦などで,ほかに拝宮地区を中心とした干柿の生産,役肉牛飼育や養鶏,養蚕などが行われていた。昭和23年宮浜村畜産・農協が設立され,昭和28年頃から綿羊導入計画を立て宮城県から買い入れ,同31年には40頭を飼育して羊毛を生産。また工業では,石油発動機等の動力による丸鋸の製材が,昭和16年桜田製材,同22年岡製材,同25年には射本製材などで始められ,板・柱などの木材製品の生産が行われるようになった。楮・ミツマタを原料とする和紙の製造は拝宮地区を中心にして行われ,昭和16年宮浜手漉紙工業組合が設立され,のち昭和22年に設立された宮浜手漉紙工業協同組合のもといを開いたが,洋紙やガラスの普及とともに和紙の生産は減少し,昭和25年組合は解散した。昭和26年の林業は,すべて私有林で7,070町(針葉樹林6,119町・広葉樹林846町・無木立地105町)で,うち人工造林276町,林産物は木炭1万4,074俵・椎茸223貫。また昭和27年の耕地面積は,田93町・畑18町で,農家戸数288うち専業51,耕地3反未満の農家が116戸と最も多く,1~1.5町は1戸,農家1戸当りの平均耕地は3.9反で,農業は女子が主となり,男子は林業労務または日雇労務・その他の仕事に従事した。当村民に大きい影響を与えたのが,那賀川電源開発事業で,昭和25年長安口ダム・日野谷発電所建設工事着工。長安口ダムは発電のほか,洪水調節・上水道用水・工業用水・農業用水の確保などを目的とした多目的ダムであった。那賀川本流を全面的にせき止めるため木頭山分の木材流送を不可能にした。当時,トラックによる木材の陸送は,那賀川沿岸の出材の45%で,残りは那賀川沿岸の筏労働者の手で流送されていた。昭和30年長安口ダム完成,貯水を開始して一部発電,同32年には全発電を開始した。工事中は工事請負者の社員や家族,下請業者に所属する労務者等2,000人が小浜・長安・桜谷付近に住み,活況を呈した。昭和31年上那賀村の一部となり,16大字は同村の大字に継承。




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「角川日本地名大辞典」
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