今新町
【いまじんまち】

旧国名:讃岐
(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は高松城下の1町。高松城の南に位置する。地名の由来は,新しくできた町であることにより,先にあった新町(古新町)と区別するために今新町となった(高松地名史話)。寛永17年高松城下絵図には古新町と当地域が小人町と記されている。寛政元年絵図にはこの筋に面する4区画,南北合わせて8区画のうち北側の西から3区画が今新町,西から4区画目の南北は野方町となっている。南側は西から同心長屋,御坊町,3区画目が今新町と記されている。地内には安永元年創業と伝える三味線商があった。琴平榎井(えない)出身の佐兵衛によるもので,彼の修業地が京都と大坂であったので屋号を京坂屋という。第2次大戦後丸亀町に移転し京阪屋の屋号で現存する(高松今昔記)。新井戸(南亀井町)の嘉永6年水道年賦銀上納割高控によると当町から銀26匁4分が上納され,新井戸から配水を受けていたようだ。明治8年の戸数154・人口503(梶山家文書)。同年それまでの手習い塾を改め私立稽徳小学校が設立される。校主は中野滝次郎,片原町・百間町・御坊町などの児童290人が通学した。同9年私立を改め町村の公費運営となるが,同17年高松と隣接村を合わせて1学区になった段階で廃されたと推定される(高松市史)。同23年からは高松市の町名となる。同30年頃同町には39戸の商人が営業し,職種は三味線商・売薬商・呉服太物商・砂糖商・古道具商・古着商など18種にのぼる。三味線商は先の京阪屋の重村伝次郎である。薬商には坪井治三郎店があった。「繁昌懐中便覧」に京都御室御所御用薬として広告し,「コレラ赤痢及諸熱一切ノ有効ヲ保証」した犀角湯を売り出した。また同便覧に古着商は合計26軒あげられているが,そのうちの10軒は今新町にあり,砂糖商は6軒のうち3軒あった。同じ頃の讃岐鉄道高松停車場から当町までの人力車賃は50~60銭である(繁昌懐中便覧)。世帯数・人口は,昭和19年末155・799,同21年末58・245(高松空襲戦災誌)。昭和33年丸亀町・御坊町の各一部を編入し,同39年一部が御坊町となり,野方町の南半分を当町に編入した。世帯数・人口は,同40年192・636(男258・女378),同50年117・337(男146・女191)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7197871 |





