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宇高連絡船
【うこうれんらくせん】


岡山県玉野市宇野港と高松市高松港を結ぶ国鉄の定期連絡船。明治33年4月讃岐汽船(資本金3万円)が設立されて,岡山の三幡から高松までの連絡航路が開設された。四国の讃岐鉄道と連絡していたので開設後1年ほどは好況であったが,明治36年3月18日山陽汽船会社(山陽鉄道の姉妹会社)が岡山~高松間に玉藻丸(224t)を就航させて対抗したため,讃岐汽船は自然消滅の状態になった。山陽汽船は同時に尾道~多度津間(児島丸224t)の航路も開設した。讃岐汽船の船玉丸は小豆(しようど)島と高松・岡山を連絡していた。その当時のコースは苗羽―下村―池田―土庄(とのしよう)(以上,小豆島)―高松―土庄―犬島―九幡―三幡(岡山)で,明治33年の金比羅案内記の広告によると,苗羽発午前5時30分で,高松着同8時30分,岡山三幡着同11時30分,岡山三幡発午後12時40分で出港すると苗羽着午後7時であった(四国鉄道75年史)。一方山陽汽船は岡山市京橋から三幡港を経て直接に高松に至るコースを取っていた。海上20海里,1日2往復,1航海2時間で,これが今日の宇高航路の前身である。山陽鉄道は鉄道国有法により,明治39年12月1日に買収されて官営となり,その時に山陽汽船の玉藻丸・児島丸・旭丸も買収された。国鉄宇野線の開通後(明治40年4月着工,同43年6月12日開通),航路が変更されて宇野~高松間となるが,船は玉藻丸と児島丸(尾道~多度津間は廃止)の2船で,1日4往復,同時に請負いのはしけ(1日1往復)による貨物輸送も開始。大正10年10月貨車航送となった。旅客増により大正6年5月15日に326tの水島丸が就航。大正12年6月から7月にかけて,山陽丸(529t)と南海丸(530t)が相次いで新造された。航路は東側を男木島・女木島・直島,西側を大槌島・小槌島に囲まれた東西12km,南北18kmの海域にある。この間には12の島と5つの岩礁(帆掛岩・俎石・牛ノ子礁・石柱・アツサ岩),3つの砂州(カマ瀬・中ノ瀬・オゾノ瀬)と直島・葛島の2つの水道がある。明治43年,宇高航路開設の頃は上・下便とも葛島水道を通っていたのが,その後直島水道を通るようになり,昭和23年4月からは原則的には上りは直島水道,下りは葛島水道を通るようになった。第2次大戦後の旅客増に対応するため大型の客貨船の建造・就航が進められた。水陸連絡施設の完成と同時に紫雲丸(1,480総t,昭和22年7月6日就航)・眉山丸(1,456総t,昭和23年2月26日就航)・鷲羽丸(1,456総t,昭和23年6月25日就航)の大型3船が就航し,輸送力を増大した。昭和30年5月11日,宇高航路史上最大の海難事故が濃霧の中で発生した。紫雲丸事件がそれで,紫雲丸は5月11日早朝,旅客781名,貨車15両,手小荷物と郵便車4両を積んで定刻の6時40分に高松を出港した。高松港出港時は薄い霧であったが,6時45分頃から濃霧となり,同55分には航行不能となった。女木島山頂から南72°西約2,500mの地点で,第三宇高丸の船首が紫雲丸の右舷側機関室補助復水器付近に,前方から約70°の角度で衝突した。天候は濃霧で無風,視界約100m弱,潮候は下げ潮の末期東流約0.3ノットであった。紫雲丸は7時頃左舷に傾斜して横転し,沈没した。旅客166名,船員2名が犠牲となったが,修学旅行の小・中学生の団体が多かったことも悲劇を大きくした(宇高航路50年史)。昭和29年の青函連絡船の洞爺丸事件とともに2大海難事故であった。こののち,同30年11月から安全対策として,新しい連絡船基準航路(現在,上りは宇高東航路,下りは宇高西航路)が制定され,旅客と客車の同時輸送も中止された。同41年以降船舶はますます大型化し,伊予丸(3,074t)・土佐丸・讃岐丸・阿波丸が就航し,宇野港・高松港の浮桟橋は廃止されて,現在の形式になった。昭和47年の山陽新幹線の開通に合わせて,ホバークラフトかもめ(23t)・とびうお(29t)も就航(宇野~高松間23分)しており,宇野~高松間の所要時間は,昭和58年で上り57分,下り1時間,旅客営業キロは海上18km。客貨船は1日17往復,ホバークラフト1日8往復。国鉄四国総局によると,昭和58年度輸送実績は約484万2,000人,内訳は上り240万3,000人,下り243万9,000人で,前年度に比べて6.2%,約32万人減少した。昭和49年度827万人をピークに,6~10%の割合で毎年減少している。またホバークラフトは約19万1,000人で,前年度より約5%減少した。現在,宇高航路には民間フェリーも就航している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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