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愛媛県
【えひめけん】


(近代)明治6年2月20日~現在の県名。明治9年8月21日第2次香川県は当県に統合され,同21年12月3日の第3次香川県成立までの12年間香川県域は当県に所属。愛媛県伊予国に対し香川県域は愛媛県讃岐国と表記された。当県は伊予国8藩が廃藩置県により8県となり,さらに松山県と宇和島県に統合され,それぞれ石鉄県と神山県に改称,両県が合併して成立。県庁は,はじめ伊予国温泉郡宮古町大林寺,のち同国同郡松山一番町に置かれ,支庁が讃岐国香川郡高松内町に設けられた。合併当時の大区小区制の頃,第1大区は大内(おおち)・寒川(さんがわ)郡で小区数7・村数60・戸数1万7,264・人口7万6,622,第2大区は三木・山田郡で小区数7・村数45・戸数1万4,984・人口6万3,159,第3大区は小豆(しようど)島で小区数3・村数10・戸数9,071・人口4万913,第4大区は香川郡で小区数9・町村数114・戸数2万6,517・人口10万2,301,第5大区は阿野(あや)・鵜足(うた)郡で小区数11・村数65・戸数2万2,459・人口9万1,919,第6大区は那珂・多度郡で小区数9・町村数73・戸数2万3,363・人口9万9,175,第7大区は三野(みの)・豊田郡で小区数10・村数72・戸数2万7,020・人口12万1,363(県治一覧概表)。同11年12月の郡区町村編制法で大区小区制は廃止され,讃岐国は新しく郡となった小豆(しようず)郡(小豆島)を含め12郡・83か町・404か村に統合される。また同18年の戸長役場管轄区域の制で176か町村に戸長役場が設けられた。明治14年地方費節減のため三木・山田郡役所が削減され,三木郡は大内・寒川郡役所に,山田郡は香川郡役所に統合された。統合後の郡役所所在地は大内・寒川・三木郡が寒川郡長尾西村,小豆郡が土庄(とのしよう)村,山田・香川郡が香川郡高松三番町,阿野・鵜足郡が阿野郡坂出(さかいで)村,那珂・多度郡が那珂郡丸亀浜町,三野・豊田郡が豊田郡観音寺村。当時,讃岐国から県庁所在地の松山に向かうには,主に多度津港から船を利用し,3日を費やすという。陸路には第3等国道が丸亀から松山に通じていたが,その距離は約35里であった。また第2等県道が高松支庁から丸亀に通じている。その距離およそ6里23町である。大久保諶之丞が唱えた四国新道の開削は,同18年11月の臨時県会で5年継続事業として決議され,翌19年4月起工式が行われた。県会は伊予側議員と讃岐側議員の対立論争の場になっているが,この臨時県会でも讃岐側議員は新道開削に賛成し,伊予側議員の中に時期尚早論を説く者が多かった。予讃分県の運動は明治15年中頃から活発になり,同年5月29日「予讃分県ノ檄文」が発せられている。分県の趣旨として,県庁が遠隔で地理不便なこと,地形・人情が異なり利害が一致しないこと,地方税の徴収・支出が不公平であることがうたわれている。地方巡察使復命書にも「讃岐地方ハ頓ニ分県独立ヲ企望シ」と報告されている。同18年の請願運動を黙殺した政府も,府県制布告を前にして分県独立に最後の機会とみなし,同21年12月3日第3次香川県の設置を認め,現在の香川県が成立した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7197968