片原町
【かたはらまち】

旧国名:讃岐
(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は高松城下の1町。高松城外濠の南に位置し,南北にのびる丸亀町北端から東に連なる町筋。地名の由来は,外濠に面する片側だけの町であったことによる。古くからあったとみられる町の1つで,はじめ片町と呼ばれていたという(高松地名史話)。寛永17年城下町絵図にはすでに「かたはら町」とある。寺院には愛行院と西福寺(のち清光寺)があった。愛行院は,もと長命寺と称していたが,のちに愛行院という修験者が住したのでそれを寺名とした。同寺は明治維新に廃寺となる。神社には華下天満宮がある。長命寺住持増圭が菅原道真の死を悼み,以前彼から贈られた道真自画像を祀って建てられた。のち生駒親正高松城築城の際に同社の霊験が得られ,以来城の鎮守とされたために城の方に向けられて北向となった(古今讃岐名勝図絵)。安政4年城下絵図には西から2区画目に位置し,西隣が愛行院である。また西福寺は4区画目にあった。明治5年地内に郵便取扱所が設立される。明治8年の戸数127・人口383(梶山家文書)。同10年町内に芝居小屋延寿閣ができ,大阪歌舞伎が来演したこともあったという。同23年からは高松市の町名となる。同40年頃玉藻座と改称して活動写真館となる。また明治30年頃には華下天満宮境内に肥梅閣という小劇場も建てられたが,のち映画館に改装された(高松今昔記)。同じく同30年頃同町では58軒の商家や職人が営業し,業種は27種にのぼる。うち商家は古道具商8・小間物商6・宿屋4・履物商4などであった。このほかに料理屋は6軒,また当時高松に2軒あった芸妓検番の1つが町内にあった。職人には大工・指物師などがいた。その頃の讃岐鉄道高松停車場から当町までの人力車賃は50~60銭であった(繁昌懐中便覧)。明治33年高松港竣工の時に片原町と兵庫町に面する高松城外濠が埋め立てられ(古今讃岐名勝図絵),北側にも徐々に商家が立ち並ぶようになる。また同43年にも埋め立てられ,同時に下水工事もなされた。世帯数・人口は,昭和19年末200・976,同21年末170・595(高松空襲戦災誌)。昭和21年華下天満宮境内に共同売場が設立され,126軒の商人が営業した。同25年ライオン通り商店街が始めた一六デーにならって当町商店街でもこれを催した(高松市史年表)。一部が同33年百間町,同39年通町となり,昭和33年通町・丸亀町の各一部を当町に編入。世帯数・人口は,同40年201・756(男326・女430),同50年182・520(男231・女289)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7198166 |