塩飽勤番所跡
【しわくきんばんしょあと】

丸亀市本島町泊宮ノ浜(本島の東南海岸)に所在する近世の塩飽の政務を執った役所跡。内海交通の要衝にあたる備讃瀬戸に,本島・牛島・広島・手島・与島・櫃石島・高見島(以上,塩飽七島)などの塩飽諸島が浮かぶ。諸島の住人塩飽衆(水主・船方・水軍などの称も付す)は,古来優れた造船・航海技術を発達させ,南北朝期以降管領の讃岐守護細川氏や有力豪族香西氏に属し,兵糧運搬船・軍用船・水軍として活動した。他方,内海航路の輸送力の担い手としての役割も大きい。室町中期,文安年間の「兵庫北関入船納帳」には,細川氏代官の仕立てによる多数の塩飽船がうかがわれる。その後,細川氏が衰退,三好氏が台頭すると,これに属して活動の舞台を広げていく。塩飽の船大将吉田・宮本・妹尾・渡辺氏らのもとで,いわゆる倭寇としての活動もみられた(南海通記)。戦国乱世に覇をとなえつつあった織田信長も,いち早く塩飽水軍の掌握に努め,天正5年に「堺津に至る塩飽船上下の事,先々の如く異議あるべからず,万一違乱の族これあらば,成敗すべく候也」との朱印状を下付している。これは堺港に出入りする自由の特権を認め,従前からの触れ掛りの特権(塩飽船の停泊や航行に際し,左右75尋の海域を自由航行できる特権であると伝えられる)を安堵したものであるといわれる。続いて豊臣秀吉政権下においても,直轄水軍として活動した。天正18年の秀吉朱印状は,島民650人に島地1,250石を領有させて御用船方とするものであった。ここに塩飽は船方650人名の領地と定められ,塩飽人名制が始まった。人名とは,大名・小名に対する言葉ではあるが,極めて独特な称である。この制度は江戸幕府に引き継がれ,より強化されていった。慶長5年の家康朱印状には,「塩飽検地の事,一,弐百弐拾石,田方屋敷方,一,千参拾石,山畠方,合わせて千弐百五拾石,右領知当島中船方六百五拾人に,先判の如く下され候条,配分せしめ全く領知すべき者也」とある。これより,塩飽は人名数に応じた幕府御用船の仕立てや水主役(役加子)の奉仕を義務づけられたが,反面,人名制による特異な統治が認められた。まさに,江戸期を通じて塩飽は人名の島であった。650人の人名は塩飽七島に配分され,人名から選ばれた4人の年寄(自宅に朱印状を保管)の合議によって全島の政治が運営された。しかし,年寄の世襲化に伴う種々の弊害が生じ,寛政元年幕府巡見使に対して人名百姓惣代による年寄の不法・島中困窮の次第等の訴えがあり,同3年に年寄世襲の廃止と年寄・年番・庄屋などの寄合による自治を内容とした島治改革の裁決が出た。そして同9年には年寄の在宅執務を廃し,全島の政所として本島に塩飽勤番所が設置された。建物については,天保12年に長屋門を新築,安政4年に建物修理,文久元年に規模拡張の大改築があり,現在に至っている。勤番所は,かつて本島村役場・丸亀市役所本島支所に使用されたが,昭和45年7月旧年寄宮本家・入江家・吉田家の墓地とともに国史跡に指定され,昭和49年から同52年にかけて全面的な解体修理が行われ,旧状を回復している。建物は方42mの木骨土塀・練塀によって囲まれ,南正面に入母屋造り本瓦葺の長屋門,その東側(敷地東南隅)に番人部屋がある。主屋は入母屋造り本瓦葺で四方下屋付き,正面玄関の奥に控の間・執務の間・表の座敷・台所などが配置され,北西部に詰所が付属する。主屋から少し離れた西手に,3段石積みの地形を施した御朱印庫と呼ばれる土蔵1棟がある。入口は二重の土戸と網戸を付けた堅固なもので,庫内の奥中央を板戸で境し,内部を1段高くして朱印状を入れる石櫃を置いた。ここには,前記天正5年の信長朱印状以下,豊臣秀吉・秀次,徳川家康・秀忠など,織豊政権から徳川幕府にかけての代々の朱印状(本島共有文書)が厳重に保管されていた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7198823 |





