多度津藩
【たどつはん】

旧国名:讃岐
(近世)江戸期の藩名。主に多度郡を領有した外様小藩。丸亀藩(京極氏)の支藩。多度郡多度津に陣屋を置く。山崎氏が断絶後,万治元年に京極高和が入部し,山崎氏の領した西讃岐5万67石余と播磨国揖保郡のうち20か村・1万石,近江国蒲生郡のうち2か村・1,445石余を加えて計6万1,512石余を領した。元禄7年に第2代藩主高豊は客死しその子高或が遺領を継いだが,高豊の遺志により庶子高通(幼名喜内)に1万石が分封され,ここに多度津藩が成立した。当藩は高通以後高慶・高文・高賢・高琢・高典と明治維新まで6代・176年間続いた。ただし藩主は第4代高賢の文政12年まで丸亀城内に居館を構えており,多度津へは重臣を派遣していた。領域は多度郡のうち15か村・7,130石余(三井組),三野(みの)郡のうち5か村・2,869石余(上之村組)であった。藩成立当初の実高は1万4,671石余で,物成6,913石余・夏成麦198石余,小物成は真綿2貫7匁(代銀281匁余)・炭124石(代銀148匁)・塩浜運上銀688匁余(塩91石余)・枌代銀456匁・漆代銀1匁・茶代銀47匁・鍛冶役銀117匁,ほかに浦々加子役銀1貫225匁余(加子2,451)・浦々帆役銀449匁などであった(円亀領之内多度津壱万石帳)。実高は,宝永8年1万5,009石余(讃岐国多度津領郷村高辻帳),宝暦11年1万4,005石余(松浦家文書),「天保郷帳」1万4,891石余,「旧高旧領」1万3,931石余。宝暦11年の総畝数1,386町余・物成6,094石余,家数3,832・人数1万8,641(男9,882・女8,759),神社93,社人8,寺院31(うち真言宗19・一向宗11など),山伏16,庵30,池169,御林18,舟39,塩浜3町5反余,塩竈6,塩浜運上銀709匁余(同前)。貞享元年に築かれた藩の塩田は三野郡松崎村にあり,幕末の面積3町4反余・運上銀709匁余(西讃府志)。享保17年に財政難解決のため藩札を発行し,南町の造酒屋であった内田屋を札元とした。以後藩札が乱発されたため藩札の価値が下がり藩札通用が混乱した。また財源確保のため対岸の備後国福山の商人から借銀をしている(多度津町誌)。寛延3年一揆が起き,三井組では全村にわたる百姓が天霧山に立てこもって藩へ大庄屋・庄屋の免職を要求した願書を提出した。藩は大庄屋を閉門に処したため一揆勢は解散した。三野郡の上之村組の大見村と神田村でも騒動が起こり,大見村では多度津近くの山階村北山まで押しかけ,神田村でも多度津へ訴え出ようとして,未進年貢の年賦納入,夫食の貸与などを求めた願書を提出している。これらの一揆は本藩の大百姓一揆の引き金となった(西讃百姓一揆始末)。文政10年に多度津に陣屋を設けることを幕府へ願って許され,同12年に藩主高賢は多度津へ移り住んだ。天保5年に多度津湊の整備に乗り出し,資金や工事面で困難を伴ったが,4年余の歳月をかけて同9年に多度津湛甫を完成した。湊の東に長さ118間の突堤,西に長さ70間の突堤,この両突堤の先端を結んで長さ110間の防波堤を設けていた(多度津町誌)。湛甫の完成により多度津湊は丸亀湊と並んで金毘羅参詣の上陸地として,また諸商品の移出入地として大いに栄えていった。教育面では三野郡財田上ノ村に郷学を設け,国史・漢文などを教え,また明治元年には新町村に藩校自明館を創立した。「国学忘見」を著した森長見,また讃岐国で最初の陽明学者林良斎は当藩の重臣の出である。幕末・明治維新期に小藩としては積極的に軍制改革に取り組み,文久元年に大砲・小銃の鋳造に乗り出し,翌年には大砲が鋳造された。元治元年には農民から徴発した新抱足軽組2組(総勢66人)を結成した。そして慶応2年になると横浜で小銃60挺と六連砲12挺を買い入れており,小銃は農兵隊としてこの年に結成された赤報隊(総勢50名)に備えられた。慶応4年のはじめに高松藩が朝敵とされ,征討軍の先鋒として当藩兵も出陣したが,この時赤報隊も従軍している(幕末の多度津藩)。明治初年の正税6,898石余,雑税は金1,589両余・銭18貫余,戸数4,912・人口2万1,687(藩制一覧)。明治4年廃藩置県により倉敷県となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7199038 |





