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昼寝城跡
【ひるねじょうせき】


大川郡長尾町前山の昼寝山(標高455m)に所在する室町期~戦国期にかけての寒川氏要城跡。昼寝山は里城・池内城から南5kmの阿讃山中にある。一帯には,女体山(763m)・矢筈山(787m)などのビュート状の山々が連なり,尾根が幾重にも派生,深い渓谷を形成している。眼下に前山川が流れ,川によって形成された地溝帯内に山間部特有の階段状地形が連なっている。東岸の平坦地に「シロミギ」の地名があり,この地点は東西両岸から階段状地形が張り出し川幅が狭くなっており,有効な防御線を形成している。その谷あいを縫うようにして,結願所大窪寺への旧遍路道や志度脇町線が走っている。山頂は,東西60m,南北最大幅11mほどの瓢箪状地形を有し,2か所の平坦地がある。西平坦地は面積約100m(^2),西隅に寒川社が鎮座する。東平坦地の面積230m(^2)。周辺の地形は極めて急峻。昭和56年の発掘調査によって,土塁や礎石等が確認された。東平坦地の南・東縁辺に残るL字状の土塁は,高さ1.6m,幅上端で2m,底部で4.5mを測る。土塁の下部には,腰巻石垣が施されている。土塁と並行して,平坦部のほぼ中央に東西6個の礎石がある。礎石間1.96mである。東・西平坦地の鞍部は,幅2mの通路となっており馬場と呼ばれている。東平坦地の南東隅のコーナーより尾根沿いに下山道があり,10mほど下った所に堀切り地形が残る。上端幅5m・下端幅2m,諸薬研堀の様相を呈している。また,昼寝山から北西に派生した尾根と深い谷によって画された標高290mの丘陵があり,居館推定地とされている。丘陵には,階段状地形があり郭と想定される。調査による出土品は,土師器・青磁細連弁文椀・白磁唐草文椀・天目茶椀・銅製切羽・鉄製小板・北宋銭(煕寧元宝・元豊通宝・元祐通宝等)・明銭(洪武通宝・永楽通宝等)。さて,古来長尾から前山・多和峠を経て清水峠に至るルートが開かれており,この城から,そのルートを十分に掌握することができる。同時に池内城との連絡も敏速かつ容易であり,このような立地条件を考え合わせると,この城は逃げの城(詰の城)であると同時に,積極的に攻撃あるいは偵察の役割をもたせている。城主寒川氏は,室町期には二位家法華堂領長尾荘の地頭となっており(三宝院文書),さらに応永初年には同荘の請代官となって実力を伸長している(同前)。また,中央では,山城国で京都東寺領上久世荘の荘官となっていた(東寺百合文書)。また寒川氏は,細川氏の被官として大内(おおち)・寒川(さんがわ)郡と小豆(しようど)島を兼領し,讃岐の代表的豪族となった。寒川但馬守元近は,応仁の乱に際し,引田・三本松・小豆島に浦長を置き細川四天王(香川・香西・奈良・安富氏)とともに細川勝元に従い山名宗全と対戦。実相院に陣を張り,相国寺合戦で家臣額孫右衛門祐光・神前出羽らが勇名を馳せた(南海通記・応仁記)。文明11年寒川左馬允仁治は王佐山城主三谷景久と領地問題で争っている。景久は夜兵を発し,寒川氏居館を襲い長尾西で激しく攻防を繰り返した。同所を合戦場と呼ぶ。これに対し,翌年仁治は三谷城を攻めたて,景久が王佐山城に逃れるのを追撃したが,要塞堅固な王佐山城を攻め落とすことができず,寒川長俊ら多数の犠牲者を出して引き揚げた(南海通記)。その後仁治は文亀元年禁中御番として上洛,山城国鳥羽竹田荘,森,播州明石郡を俸禄として受領した(讃陽古城記・寒川至家系図)。この頃より讃岐には細川氏の勢力衰退に伴い,阿波三好氏(阿波屋形細川氏)と周防の大内氏の二大勢力が及ぶようになった。寒川左馬允元家は大内義興の麾下に入った。それより以前,阿波三好氏は,寒川氏領にしばしば侵入し,永正2年に極楽寺領を寒川氏から略奪している。一時公方の命により和睦するが寒川氏が大内氏の麾下になったことを喜ばず,植田氏に命じて昼寝城を攻撃させた。しかし,防備堅固な昼寝城を落とすことはできなかった(南海通記・讃岐国大日記)。永正9年大内義興の命により,香西氏・安富氏とともに中国・琉球方面で交易し,巨利を得た(南海通記)。寒川太郎元政は,大永3年寒川郡上道4郷と下道3郷の境界争いから,安富元長(安富盛方説もあり)に里城の池内城を攻撃されたが,寒川常隣・神前出羽の活躍でこれを撃退した(塩木合戦)。さらに,大永6年阿波三好元長の援護を得た植田氏一族の十河景滋と対立,三好氏は寒川氏への総攻撃を企て昼寝城・池内城を攻める作戦をたてたが,先手を打った寒川氏に三木郡津柳の南端堂ケ平で挟撃された(津柳の合戦)。天文元年十河一存(景滋の子)は津柳合戦の報復として再び長尾に攻め入るが,河波屋形細川晴元の命により和睦した。同9年塩木合戦以来対立していた安富元長(盛方説もあり)が寒川領へ侵攻。長尾表で防戦した元政も,池内城を攻められ,昼寝城に退いた。その折,安富氏の兵糧攻めに苦しんだが細川持隆によって包囲が解かれた(南海通記)。その後,寒川氏は所領大内郡を三好長治(実休の子)に奪われ,さらに,昼寝城も天正2・3年と三好氏によって攻められるなど勢力衰退に向かう。そして,同10年長宗我部元親軍の攻撃にあい,同年8月阿波三好氏方に属し,中富川で決戦,遂に元親の軍門に降り家運は大きく傾いた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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