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丸亀城跡
【まるがめじょうせき】


丸亀市一番丁を占める藩政時代の生駒・山崎・京極氏居城跡。丸亀平野の北端部に位置する標高67mの亀山(円亀(まるがめ)山・蓬莱山)に螺旋式城郭を構え,周辺の平地に内堀・外堀を巡らした平山城で,別に亀山城・蓬莱城の名がある。亀山には,室町期応仁年間管領細川勝元の四天王の1人に数えられた宇多津聖通寺城主奈良元安が出城を築いたと伝えられる(南海通記)が,本格的な亀山築城は讃岐の領主生駒親正(天正15年讃岐国15万石余を受けて入部,翌16年より数年かけて高松城を築城)による。慶長2年親正は嫡子一正と相談の上,西讃統治の支城として那珂郡津の森荘亀山に丸亀城を築き,一正を配置した(生駒記,慶長2年着工・同7年竣工説もある)。慶長6年一正が親正の跡を継いで讃岐一国の領主になると,丸亀城には佐藤掃部,次いで一正の子正俊らの城代が置かれた。その後,元和元年の一国一城令によって廃城となったが,寛永18年山崎家治が西讃5万3,000石を与えられて入部すると,古城修築が許可され,「寛政譜」の記事によれば寛永20年着工,正保の初年頃に竣工したようである(「生駒記」「西讃府志」は寛永19年着工,同20年竣工とする)。家治による再建工事は相当大規模なものであったが,城郭全体の縄張りはほぼ生駒氏時代のものを受け継いでいる。この山崎氏3代17年の居城を経て,万治元年京極高和が西讃5万67石(播磨国揖保郡に1万石の飛領地)の領主として入城。2代高豊時代にかけて城の修築・整備がなされ,京極氏7代212年で明治維新を迎えた。明治2年12月藩主御殿・藩庁が焼失し,同4年の廃藩置県後には他の建物(二層の櫓・鐘堂・鼓楼・宝庫など)も順次取り壊された。山頂の本丸台北寄りにたつ天守閣は,三重三層総塗籠の独立式。小規模ではあるが,城下から望んで堂々たる美観をなす。これは,梁行が桁行より長い北面の最上層に入母屋造りの屋根や格子付きの大窓,二重目に唐破風を設けるなどの工夫がなされていることにもよるといわれる。本丸跡の東側に1段下がって二の丸跡,本丸・二の丸を囲むようにして三の丸跡,その西・南側下方に帯曲輪跡が巡り,いかにも螺旋式の縄張りが顕著である。二の丸・三の丸跡を取り囲む四方張りの石垣は,高いところで21m余。扇の勾配とか清正流の三日月形と呼ばれる石組みは見事な曲線美を描いて,城全体に雄大さと優美さを与えている。この丸亀城が誇りとする高石垣の大部分は,家治の築造によるものといわれる。三の丸跡から見返り坂を下りた北側正面に大手門・枡形(東西21.7m・南北17.5mの大型)が造られているが,生駒氏時代には南側が城の正面であったとされる。当時の丸亀城を物語る古絵図には,現大手門付近に矢来を巡らせた丸木柱の粗末な門と土橋が描かれ,現搦手にあたる所に大手門や枡形が見られる。大手門が北面に変更されたのは京極氏の襲封後である(万治3年幕府の城郭改築指図書などによる)。東西約750m・南北約1,000mに及んだ外堀はほとんど埋め立てられ,現在十番丁と城南町の間にその一部が残るだけである。内堀は東西約500m・南北約450m・幅約30mのほぼ方形,昭和28年3月内堀以内が国史跡となった。また,天守閣と大手一の門(枡形の西側,入母屋造りの櫓門で,楼上で時報の太鼓を打ったことから太鼓門とも呼ばれる)・二の門(大手の外門,切妻造りで高麗門の様式)および東西土塀(内面に6段の石積み,東に2個,西に3個の狭間が付く)が同32年6月国重文,御殿表門(現市立図書館・資料館一帯に所在した御殿の玄関先御門,薬医門の様式)とその西側に続く番所・長屋が同38年4月県文化財となる。なお,現在城内には各種の公共施設が立ち並び,市民憩いの亀山公園として利用されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7199801