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蒋淵半島
【こもぶちはんとう】


宇和島市西部の宇和海に突出した半島。延長11km。先端部は自然景観にすぐれ,足摺宇和海国立公園の特別地域に指定されている。地質は中生代四万十層群の砂岩と頁岩の互層よりなる。地形的には宇和海沿岸のリアス式海岸の一環をなす。旧山稜部の沈水をまぬがれた部分であり,平坦地はほとんどない。集落は冬の季節風を避け得る湾入部に多く立地する。藩政期には,半島部に蒋淵浦と遊子浦の2つの浦があり,蒋淵浦は吉田藩,遊子浦は宇和島藩に属しており,ともに鰯網漁業を主漁とし,鰯大網が蒋淵浦に11,遊子浦に13あった。しかし幕末に甘藷が導入されて以来次第に主農副漁的になった。大正元年の「遊子村誌」には「先是村ハ半島漁業ノミヲ以テ生計ヲナセリ,然ルニ年ヲ経ルニ随ヒ重農主義ニ傾キ,遂ニ農ノ歩合ヲ高メ或ハ漁六歩農四歩トナリ,目下反比例ヲ示シ農七歩漁三歩トナレリ,……近年凶漁ノ続クヲ以テナリ,享保年間ニ甘藷伝ハリ,地方ノ大産物トナリ,其後万延ノ頃カライモ伝ハリ,食物ハイヨイヨ豊富トナレリ,由来大地主ナルモノナク,生計稍平均シテ資産高低少シ」と記載されている。イワシ網の変遷を遊子に例をとってみると,地引網(昭和8年ころまで残存)↑四手網(明治末~昭和10年)↑沖取網(昭和11年水荷浦に導入,同15年ころより普及)↑巾着網(昭和18年から)↑中型巻網(昭和25年から)↑大・中型巻網(昭和37~46年)。藩政期以降昭和年間に至るまで鰯網の総数は13であった。網の経営形態は網主―網子制のもとに営まれたが,大正期から共同化が進み,昭和11年以降大型の沖取網が普及してから,急速に共同網化された。共同網は集落共同体のもとに行われ,1戸1株の出資で,労力も平等に出役し,収益は平等に配分した。蒋淵では鰯網は個人経営と共同経営の両方が存在した。網の変遷は遊子とほぼ同じ経過をたどる。鰯巻網は遊子では昭和46年に,蒋淵では昭和38年ころに消滅する。鰯漁に代わって,真珠とハマチの養殖が行われた。遊子では,真珠母貝養殖は昭和34年,真珠貝養殖は昭和36年大月真珠(外部資本)によって,ハマチ養殖は昭和38年から開始された。一方蒋淵では,真珠母貝養殖は昭和37年ころ,真珠貝養殖は昭和32年三重の資本によって,ハマチ養殖は昭和39年に開始された。半島部の農業は段畑耕作で,大正初期には畑が遊子に192ha,蒋淵に182haあった。昭和35年の耕地面積は遊子183ha・蒋淵121ha,同50年には,遊子142ha・蒋淵32haとなり,うちミカン園が75%を占める。風の強い半島先端部の蒋淵地区で耕作放棄が著しく進展し,かつての段畑を特徴づけた夏作の甘藷と冬作の麦はほとんど姿を消した。現在の半島部は養殖漁業を主体とする主漁副農の村となっている。半島は長らく陸の孤島であったが,明治43年宇和島への沿岸航路が開け,昭和45年バスが遊子の甘崎(あまざき)まで乗り入れた。半島部に自動車が入ったのは昭和39年半島基部の辰野トンネルが開通して以降である。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7201459