岸本
【きしもと】

旧国名:土佐
香長平野の南東に位置し,土佐湾に面する。東は月見山系が南走して先端が断崖状をなして海に迫り,崖下脇の磯の地を東西交通の通路とする。西は赤岡で昔はともに松林が多かったが,逐次開伐されて漁家が軒を連ねるに至ったという(香美郡町村誌岸本村)。地名の由来については,「夫木抄」の衣笠内府の歌である沖津浪岸の浦にちなむとか,漁家が散在していた所にいつしか新町・新在家など枝浦ができ,その本末区別のため「岸ノ本浦」と称したとか(香美郡誌),岑本(きしもと)神社敷地であることから岸本村と称した(岑本神社々伝略記)などの諸説がある。「三代実録」貞観8年5月22日条の従五位下を授与された「峯本神」は岑本神社に比定される。「土佐日記」に承平4年紀貫之が国司の任を終えて帰京の途次,「かくて,宇多のまつばら(松原)をゆきすぐ」と見え(古典大系),宇多の松原の比定地は諸説あるが,地理的状況その他から岸本から赤岡に至る海浜が最も妥当とされている。承久の乱で土御門上皇が承久3年閏11月土佐国幡多に配流され(増鏡),貞応2年5月阿波国に遷幸の途次,常楽寺(現宝幢院)を行宮とし,山上で観月の故事にちなみ,山名を月見山と称したという(南路志)。地内に姫倉城があり,戦国期長宗我部元親と安芸国虎の和睦が破れ,永禄12年7月元親は姫倉城を攻め,城主姫倉豊前守(土佐遺語では玄蕃)・同右京は安芸へ敗走したという(土佐物語)。姫倉城は月見山上にあり,上久保五郎兵衛の先祖代々覚書に,姫宮密妊の咎で配流されてこの山に居城したために姫倉を称すとあるが(竹頭),姫倉氏との関係は未詳。姫倉城は岸本城ともいう(土佐遺語)。落城後の城主は,長宗左兵衛・千屋豊後(類聚土佐故事),安岡出雲(土佐物語),長宗我部五兵衛(元親公代城持書付)などと見える。
【岸本村(中世)】 織豊期に見える村名。
【岸本村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【岸本村(近代)】 明治22~34年の香美郡の自治体名。
【岸本町(近代)】 明治34年~昭和30年の香美郡の自治体名。
【岸本(近代)】 昭和30年~現在の香我美町の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7205189 |





