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西豊永村
【にしとよながむら】


(近代)明治22年~昭和30年の長岡郡の自治体名。四国山地にある梶ケ森・杖立山の北方,吉野川流域に位置する。地名は当村が江戸期の豊永郷西部地域に位置することに由来する。粟生(あお)・梶ケ内・寺内・西久保・安野々・川戸・連火(つれび)・桃原・船戸・中屋・庵谷・黒石・柳野(やないの)・大砂子・永淵・大窪・奥大田の17か村が合併して成立。旧村名を継承した17大字を編成。明治29年粟生のうち佐賀山・上東の地域が当村の大字となり,寺家の地域は東豊永村粟生となる。同32年には東豊永村下ノ土居の一部(中須・福井・牛飼野)を編入し,当村の大字下ノ土居とし,以後19大字を編成。村役場ははじめ粟生(上東)に置かれ,明治36年~昭和23年は川戸(安野々境近く),昭和23~30年は下ノ土居にあった。明治24年の戸数852・人口4,534(男2,420・女2,114),厩16,寺院2,学校6,水車場5,船22。同29年の管内現状調査(高知地方法務局豊永出張所蔵)では戸数949・人口4,440,反別4,212町8反3畝7歩。人口は,大正9年5,104,昭和5年5,156。明治23年の村内には「寺内 庵谷 大砂子 連火 奥大田 佐賀山の六巡回授業を置き訓導三人授業生三人を以て之が教授を担任せしむ」とあり,予算261円余のうち252円が俸給額,残り9円が6校舎の経費(高知教育会雑誌5)。同27年当村域を通る国道(現国道32号)が完成。大正12年東豊永村において現在の国鉄土讃本線を二分し,琴平(香川県)~東豊永間65kmを土讃北線,土佐山田~東豊永間35kmを土讃南線として南北両方面から工事を行い,土讃南線は昭和9年,土讃北線は同10年開通し土讃本線は全線開通(土佐山田駅五十年の歩み/土佐山田町史),当村域を通るようになった。同16年村内福井において列車が脱線,吉野川へ転覆する事故が発生。明治27~40年黒石に巡査駐在所が置かれた(県警察史)。郵便局も上東・黒石・寺内と移転する(豊永郵便局局務原簿)。高知地方法務局豊永出張所蔵の記録によれば大正2年に高知区裁判所豊永出張所が東豊永村下ノ土居から西豊永村寺内へ移る。昭和7年頃の資料によれば,面積3.78方里,戸数1,058・人口5,213,農産物の主なものは米4万1,941円・麦1万5,554円・繭4万7,805円・楮1万1,400円・三椏9,800円などで,ほかに畜産の5,571円・林産2万8,738円(木炭・用材など)・工産3万7,601円(茶その他)などがある(県誌)。同11年の生産総額59万1,749円うち農産29万3,464円・畜産5,034円・林産23万9,473円・水産1,907円・工産5万1,871円,主要生産品は繭・米・木炭・麦(経済一覧)。同30年大豊(おおとよ)村の一部となり,下ノ土居は西土居と改称し,他の18大字とともに同村の大字に継承。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7207335