100辞書・辞典一括検索

JLogos

58

赤池炭鉱
【あかいけたんこう】


田川郡赤池町・方城町・金田町,嘉穂郡頴田(かいた)町,直方(のおがた)市にまたがってあった炭鉱。この炭鉱は筑豊でも最も古い歴史があり,寛政年間に既に採掘した跡があるといわれる(筑豊炭坑誌)。天保年間には小倉藩の御用炭山として赤池石炭会所が置かれ,郡内の炭坑業者を管理支配したほか,坊主ケ谷・林ケ谷の両坑に専任の支配役各1名を置いて藩の直営で採炭を行った。明治維新後,鉱山解放令によって,地方の村民が争って零細な採炭業を営んだが,明治20年から鉱区選定の議が起こり,赤池鉱区(33万6,000余坪)の権利を得た平岡浩太郎が起業資金に窮して,同21年安川敬一郎に共同経営を依頼した。安川はこれに応じ,鉱区の拡張を図る一方同22年4月赤池竪坑の開削に着手した。しかし設備不充分のため一時中止し,同23年2月再開,その秋深さ250尺の竪坑を完成,採炭を開始した。この時資金不足に悩まされたが,相田炭鉱と明治炭鉱の売炭を利用して三菱から3万円の融資を受け,ようやく起業を完成した(明治鉱業社史)。同26年11月に45万余坪の鉱区を加えて事業規模を拡大,翌27年2月には新しく斜坑を開坑して捲揚機を据え付け,同29年には通気兼用竪坑を開削し,同30年にも新坑口を開くなど着々と坑内外施設を整備した。その後,平岡浩太郎が豊国炭鉱の単独経営に乗り出したため,安川は同34年5月,平岡の赤池炭鉱持分を40万円で引き受けることとなった。この資金の調達は,明治炭鉱の大阪側持株一手引受けと重なって困難を極めたが,日銀の高橋是清などの援助で解決され,明治炭鉱より一足先に個人所有となった。こうして安川の所有となった後,同36年6月,坑内火災が起こり,負傷者13名が出た。その復旧が終わらない同年11月15日再度坑内火災が起こり,死者36名を出した。ただちに第1竪坑・第2坑・第2竪坑の順に坑口を密閉,翌年4月までに復旧を完了,5月3日までに全遺体を収容した。これより先,明治32年2月,明治第1坑で納屋制度を廃止して以後,順次他の坑でもこれを実施した安川は,同35年4月,中堅技術員養成の目的で私立赤池鉱山学校を開設した。わが国最初の炭鉱技術員養成所であった(同前)。その後同40年に豊国炭鉱を引き受けた安川は,明治・赤池・豊国の各炭鉱を合わせて資本金500万円の株式合資会社を翌41年1月7日設立し,社長となった。この当時,赤池炭鉱は鉱区面積約205万坪,同41年7~12月の出炭8万1,259t,12月末の鉱夫数1,433人であった。大正期に入って同3年2月第2坑を開坑,同7年8月には鉱区東部の深部開発のため新坑(第3坑)開坑に着手する一方,同8年4月1日組織を改めて明治鉱業とした。同9年1月には第1坑(竪坑)の切り拡げを再開,同12年8月には開削中の第3坑が着炭するなど拡充が進んだ結果,明治27年以来ほぼ30年間,ほとんど10万t台であった生産量が,大正12年から20万t台,同14年から30万t台,さらに昭和2年から40万t台に増加した。しかし昭和恐慌の中で第2坑は同5年10月一時閉鎖され,生産も30万t台に減少した。こうした中で坑内外の電化が進み,合理化のためにも商品にならない2号炭で発電して明治・赤池・豊国・高田の各炭鉱へ安価な電力を供給する必要が生じ,大正10年初頭赤池発電所の建設に着工し,同11年7月から送電を開始した。また昭和6年来,第1・第3坑間の大風道開削に着手し,同8年に完成した。同年12月11日,第3坑でガス爆発が起こり,死者10名・軽傷者4名を出したが,同10年10月26日再び第3坑でガス爆発が起こり死者83名・重軽傷者17名を出した。11月4日の全遺体収容後,平常採炭に戻ったが,戦時増産態勢の中で災害が続発した。昭和9年6月,休止中の第2坑が再開され,11月から採炭を始めた。さらに同13年2月11日に第4坑が開坑され,1~4坑によるフル操業によって,同13・14の両年は50万t台を出炭し,特に同14年は2,700余名の鉱員で56万4,895tの生産を上げ,1人1か月能率も17.1tを記録した。採炭の深部への移行に伴い,同15年から排気斜坑を開削し,同18年に完成し対隅式通気に改めた。採炭方法は,大正10年頃から近曲片式採炭法を採っていたが,昭和6年第3坑で長壁払を開始し,昭和10年頃からは第3坑の三尺五尺累層で,3段または4段の後退式追掛払を成功させた。このようにして戦時非常増産態勢で同18年まで年産40万t台を維持し,同19年も約35万tを生産したが,第2次大戦終了とともに生産は激減した。戦後復興過程でカッペ採炭などを導入し,近代化を図ったが,朝鮮戦争ブームの同26年34万3,070tを生産して以後伸び悩み,特に第1・第2坑は上部古洞や中部区域の残炭採掘に転じ,同38年9月末,閉山となった。第3坑は深部でメタンガスが多く,昭和26年5月25日ガス突出により死者7名・軽傷1名を出したのに続き,同30年11月9日長壁式採炭切羽でガス突出のため死者11名・重軽傷6名を出した。このため同31年から本格的なガス抜き採炭を進めたほか,第4坑と坑内で連絡した。このほか同35年には筑豊で初めて水力採炭を採用するなど生残り作戦によって,同36年度の生産42万1,900t,同37年10月の鉱員1人当たり能率18.3tを記録したが,同40年規模を縮小して第二会社化することを余儀なくされ,同年8月10日,赤池鉱業(資本金2,000万円)を発足させた。次いで同41年3月24日,赤池鉱業赤池炭鉱は石炭鉱業合理化事業団による閉山交付金が決定し閉山となった。明治22年開坑以来70余年にわたってこの炭鉱で採掘された石炭の総量は,赤池区域だけでおよそ1,900万tに達する。またこの炭鉱の392万坪におよぶ鉱区では長年にわたる累層採掘と採炭区域の拡大の結果,家屋・農地その他の鉱害が増大し,賠償問題が深刻な課題となった。なお昭和14年に明治炭鉱は赤池炭鉱に合併された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7208815