新手炭鉱
【あらてたんこう】

中間市中間にあった炭鉱。新手炭鉱の名は筑豊石炭鉱業の歴史上古い時期に登場する。明治15年に許斐鷹介が他の2名とともに鞍手郡下境村に借区を得て開いた炭鉱がそれで,のちの本洞炭鉱である。他方,遠賀(おんが)郡中間村に伊藤綯索が明治14年に借区を得て,同16年に開坑した三尺炭を採掘して1日16万斤の出炭をする炭鉱があった。2万余坪の借区で採掘・運搬・排水のすべてを人力に頼っていたので同17年排水上の困難から休業したものを,許斐鷹介ほか数名が譲り受け,増借区を出願する一方,五尺炭の採掘を始め,同20年10月頃着炭し,第二新手炭鉱と称した。翌21年出炭1,000万斤以上の筑豊主要炭鉱に名を連ねた当鉱は,同22年蒸気汽缶の据付けを終わり,さらに字門前の旧坑を開坑し最盛時には1日44万~45万斤の出炭を上げた。しかし同24年夏洪水のため字道元の堤防が決壊して坑内に浸水し,翌年復旧した時には炭価が下落したため,同27年2月九州炭鉱に移譲,同社はその事業を谷茂平に請け負わせた。同30年8月,五尺層の竪坑開削に着手し,翌年6月竣工し,同32年6月には鉱業権を谷茂平が譲り受け,10月に三尺層の開坑に着手し,翌年4月着炭した。同35年10月,鉱業権がいったん谷角平に移ったのち,同年11月10日さらに吉野大三郎に移譲された。吉野は同36年から40年にかけて周辺鉱区を買収して約98万坪としたが,同38年7月このうち約47万坪の名義を矢作忠良のものとし,採掘権は吉野が継続した。この年吉野大三郎が死亡し,嗣子吉野港が宮川良一の後見の下に採掘権を継承したが,同41年3月矢作忠良名義の鉱業権が第十七銀行頭取岡田三吾に帰し,同年11月さらに伊藤伝右衛門に移譲された。伊藤は翌42年10月新手炭鉱(資本金50万円)を設立し,自ら社長として経営に当った上,同44年10月に買収した鳳凰炭鉱(長津村蓮花寺)を大正2年に第二新手炭鉱と改称したが,この頃から暫時新手炭鉱の消息が筑豊の石炭鉱業の史料から跡絶える。「日本炭礦誌」によると,明治41年2月当時の状況は,五尺本坑・五尺竪坑・三尺新坑・三尺竪坑・人道坑・本石第1坑・本石第2坑の7坑口があり,三へだ三尺層・四へだ五尺層・本石三尺層の3層を採掘して,明治40年中に725人の坑夫(うち女子293人)で10万4,647tを出炭した。また同坑は役員有志の申合わせで乳児院を設置,坑夫の乳児を保育していた。当時の納屋数は瓦葺11棟・藁葺7棟・小板葺19棟,計37棟,現住人員1,280人,坑夫共救会制度の会員は稼働金のうち毎日2銭を積み立て,会員積立金の半額を毎月事務所から補給積立てし,傷病死者の見舞祭粢料,貧困者の扶助などに充当していた。また同42年12月には捲揚機を16インチに強化し,排水設備もエバンスポンプ4台を増設した。この年坑夫の雇入れ422人,退山138人で,在籍数は936人であった。さらに大正元年9月16日には試錐2か所が完工し,50kw交流発電機を設置して,鉱業所および付近需要家に点灯した。また大正元年の調査で,新手炭鉱の採炭夫数は296人,平均賃金は69.5銭であった。新手炭鉱の名が再び登場するのは昭和5年9月で,「本邦鉱業の趨勢」に小林勇平による開坑が報じられた。休坑中の同鉱を昭和4年9月大正鉱業より買収,復活したもので,同7年5月には選炭場を新設し,大塊ジンマー,ピッキングベルト,ドラム式水洗機を設備したが,この年香春(かわら)・平山両炭鉱とともに重要鉱山に指定された。同8年には921人の坑夫で10万1,752tを出炭し,同9年6月には貴船坑を開坑した。同12年11月5日に落盤で死者3人を出したが,同14年には1,290人の坑夫数(6月末)で13万920tを出炭,さらに同17年には26万4,429tの出炭量,同18年の1人当月平均出炭能率9.4t,同19年には9月末労働者数2,245人(女子572人)で24万8,055tの出炭を記録した。戦後は同21年12月に技能鉱員養成所を設立,傾斜生産の下で九州採炭として2億178万5,000円の復金融資を得て,同22年には10万t台の出炭となった。しかしドッジライン下の不況で,同24年9月13日に新手三尺坑を閉鎖し,余剰人員の整理と2坑・3坑・5坑で停年制を実施し,鉱員320人,職員63人を整理した。この後合理化に伴う労使紛争が続発したが,同29年4月新手本坑を廃止,鉱員は直接夫281人を2坑・3坑・5坑へ配転,間接夫42人・坑外夫109人・職員72人は解雇した。九州採炭としては,これに続いて同31年5月海老津炭鉱(岡垣村,年産5万3,000t・358人),同32年8月高陽炭鉱(岡垣村,年産7万9,000t・610人),同年9月笹原炭鉱(嘉穂郡碓井(うすい)町,年産3万8,000t・364人)を次々に閉山し,新手鉱業所では同32年から鉄柱・カッペ採炭,翌33年にはH型コンベアー,同34年からコールカッターを採用して近代化を進めた。しかし折からの石炭斜陽化の進展に伴って賃金や労働条件をめぐる労使紛争も続発し,同34年3月には給料の2割金券支給に反対して,労組は休日出勤拒否闘争を実施した。同36年6月5日には3坑が坑内の自然発火で水没し,5坑に生産を集約したが,77人の希望退職募集に若手や技術者を含む300人が応募して生産に支障をきたし,月産額が半減する事態が起こった。このような中で同年7月29日には落盤で3人が死亡し,9月には生産規模の縮小で経営難となり,労組の要求で労使協定の上,10月22日会社再建計画を了承して操業を再開した。このような経過で同36年度は出炭量12万1,375t,年度末人員552人であった。同39年1月30日,九州採炭は新手鉱業所の閉山方針を決め,組合とも了解した。この結果同40年3月27日新手炭鉱(年産15万3,838t,労働者数528人)は石炭鉱業合理化事業団による閉山交付金が決定し,閉山となった。なお同鉱の鉱区は同35年3月現在11万4,031a(約342万坪)で,同34年度出炭量は30万4,000tに達した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7208986 |