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小倉県
【こくらけん】


(近代)明治4年11月14日~同9年4月18日の県名。旧豊津県・千束(ちづか)県・中津県と明治2年以来日田県管地になっていた企救(きく)郡を併せて成立。地積は3万5,739町(田2万2,881町・畠9,447町・荒地3,411町),高は36万3,265石(企救郡4万5,796石・田川郡5万4,753石・京都(みやこ)郡3万4,618石・仲津郡4万1,667石・築城(ついき)郡2万3,234石・上毛郡3万8,110石・下毛郡4万8,615石・宇佐郡7万6,472石)。県庁を企救郡小倉に開き,支庁を千束(上毛・下毛両郡を管轄)と四日市(宇佐郡を管轄)に置いた。明治4年12月伊東武重(旧肥前藩士)が参事,堀尾重興(旧南部藩士)が副参事に任命された。このとき県令は置かれなかったが,明治7年伊東は転任して小幡高政(旧長州藩士)が権令として着任。明治4年4月の戸籍法による区制も小倉県設置によって再編成を行い,明治5年県下75町・825村,戸数6万4,021・人口30万5,090を103区に区分し各区に戸長を配した。明治6年12月大区を置くことにし企救郡を第一大区(1~18の18小区),田川郡を第二大区(19~31の13小区),京都郡を第三大区(32~40の9小区),仲津郡を第四大区(41~51の11小区),築城郡を第五大区(52~59の8小区),上毛郡を第六大区(60~67の8小区),下毛郡を第七大区(68~80の13小区),宇佐郡を第八大区(81~87と93~96の11小区)と第九大区(88~92と97~103の12小区)の合計9大区103小区に分け,大区に区長を置いた。小区の範囲は生活実態に即さない点があったので明治8年編成がえが行われた。この制度のもとで地租改正をはじめ戸籍・徴兵・学校教育など明治新政府の基本的な問題が推進され,同時に民費の徴集,土木,勧業,災害復旧,消防,捨子の撫育,貧民救済,風俗矯正,伝染病対策など直接民生安定にかかわる施策の初歩的な基盤づくりが構築されていった。廃藩置県にさきだつ明治4年4月西海道鎮台が小倉に設置されたが,廃藩置県後の同年8月の軍制改革で東京・大阪・鎮西・東北の四鎮台制となり西海道鎮台は廃止された。鎮西鎮台の本営は小倉と定められたが,当分の間は熊本に置かれることになり,結局,熊本鎮台が九州の軍事的管轄を行うことになる。明治8年4月小倉には歩兵第14隊が設置された。廃藩置県で生まれた305府県は,県治画一化の必要性から明治4年11月までに3府72県に統廃合されたが,当県域はその後も続き,明治9年4月18日福岡県に合併し,県名は消滅。小倉には福岡県小倉支庁が置かれた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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