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下山田炭鉱
【しもやまだたんこう】


山田市と嘉穂郡嘉穂町・稲築(いなつき)町にまたがってあった炭鉱。この一帯は海軍予備炭田に編入されたのち,明治23年一部を除いて開放された折,頭山満が借区の許可を得た。同27年9月,古河市兵衛は頭山から,大隈村牛隈と稲築村才田にまたがる借区34万5,950坪と熊田村下山田借区60万坪を譲り受け,これを合併して下山田炭鉱とした。翌28年8月,下山田字中山地内の蝙蝠五尺層露頭から斜坑を下ろし,同時に80kw発電機1台ならびに汽缶2台・電気捲揚機1台の据付けに着手し,同31年11月に運転を開始した。この電気捲揚機は炭鉱における電力応用の嚆矢であったという(古河鉱業創業100年史)。「筑豊炭坑誌」によると,同31年2月現在,蝙蝠五尺坑のほかに,坑口から250~500間の水平坑道を穿ち,それから卸坑道によって五尺・二尺・三尺,間の三尺の各炭層を採掘する4つの坑口があったが,当時まだ起業中で,捲揚機も未だ稼働していなかった上,若松までの鉄道も開通したばかりで炭車が払底していたので,出炭は1日平均38万斤内外であった。坑夫350人の中にポンプ方として朝鮮人労働者を29人雇用したことが他に例をみないことで,結果が良好なのでさらに増雇手続中と同誌に記されている。諸設備の完成とともに,出炭も同32年3万1,000t,同35年7万4,000tと増加し,同38年の「本邦鉱業一斑」によると99万9,000坪の鉱区で同37年に749人の坑夫によって7万9,362tの生産を上げている。同40年には熊田村下山田ウナブシ地区の海軍八尺層露頭から新坑を開削し,下山田第2坑とした。これは,鉱夫昇降兼入気斜坑と排気斜坑からなり,エンドレスロープによって第1坑選炭場へ送炭した。またこれまでの自然通気に代えて,同43年6月にはチャンピオン式電動扇風機(40馬力,排気量毎分9万8,000立方フィート)を設備した。採炭方式は主として残柱式で一部長壁式を採用し,選炭は手選で,塊・粉に分別する必要のある時は万斛を用いた。出炭は明治40年13万t,同44年18万2,000tと着実に増大した。第1次大戦の好況期,大正5年6月,字中山地内の杉谷五尺層露頭から第3坑を開坑し,翌6年の3~4月には旧坑再開による残炭採掘を主な目的として牟多田・迫ノ浦・中山などに7坑を開坑した。また同7年11月には下山田地区に嘉明坑を開坑した。これらに伴う運搬・排水・通気などの諸設備の新設・配置換えに加えて,従来のチャンピオン式に代わる強力なシロッコ式(15万立方フィート)通気設備を採用,動力も蒸気から電力に改めた。第1次大戦後の恐慌期には生産が停滞し,同11年9月には鉱区の一部約7万坪をほかに譲渡することも行われ,同12年の生産は9万tを割った。その中でまず選炭の合理化が行われ,大正10年にジッガーによる機械選炭を開始し,大正末期には大塊・中塊・粉炭に三分して送炭するようになった。同15年7月,中山地内に竹藪八尺層の採掘を目的とした新坑が開削されてから,採炭・運搬に機械化が実施され,削岩機,コールピックのほか,昭和9年にはコールカッター1台も投入された。坑内外運搬設備では,電気捲揚機の設置,軌道・炭車の増設・改修が行われ,採掘跡の完全充填も合わせて行われた。また昭和2年以降,洗炭設備を本格的に整備し,満州事変以後の増産態勢の基礎を整えた。昭和初期の合理化の中で,火薬代節約のため発破採炭を手控えて,ピック掘・鶴嘴掘が奨励されたこと,労務費節約のため賞与率を引き下げ,第2坑で常一番制を採ったことなどは,この時期の合理化の一面を物語る。この間,新1坑では労働能率が,1人工程で同6年12月の5.3tから,同7年4月の6.6tに上昇した。このようにして出炭量は同7年25万t,同8年29万t,同9年31万tと着実に増大した。同10年,送炭統制の強化に伴って緊急増産体制を採り,操業以来最高の32万9,202tの出炭を記録した。なおこの年,安全優良炭鉱として商工大臣から第1回表彰を受けた。同11年には残存可採炭量の乏しい新1坑の代替として大焼層の開発に着手したが,この時既に増産に伴う運搬面のネックと人手不足が課題となった。なおこの時期,出炭コストが3円82銭と好間炭鉱に次いで低かったのは,老齢鉱で大焼層開発も本格化していないこと,大災害のない良好な坑内条件の反映とされた。しかし戦時体制に入って,大焼層の本格的開発の過程で,人員不足と就業率低下のため,出炭は同15年に約22万tに減少した。東北地方,南九州での鉱夫募集も目標に達せず,昭和14年後半からの婦女子の採炭作業やほかからの転業者による労働力補充も,能率の低下をきたし,採炭の強行は掘進や保坑の遅れをもたらした。こうして戦時生産力は衰退し,生産は同17年に16万tを割り,その後の増産努力も19万tまでがやっとであった。戦後,乱掘と労働者の減少,資材不足によって生産は激減したが,傾斜生産によって回復に向かった。下山田炭鉱も同25年に14万5,000tに回復した後,ダックビル・H型コンベアーなど運搬の機械化と選炭設備の近代化に努めたが生産は伸び悩み,産出炭の品位も低下傾向となり,1人当たり能率の若干の向上がやっとであった。同30年代に入って,エネルギー革命の下で,格段の能率向上とコスト引下げが要請され,下山田炭鉱では電化設備の増強が行われた。その結果,同36年度の出炭は20万5,000tに達し,出炭能率も21.4tに向上した。従ってこの年以降同系の各炭鉱が相ついで第二会社化される中で,目尾炭鉱とともに最後まで直営で操業された。しかし同40年代になると,石油との競争のほかに,労働者の高齢化と労働力不足,深部移行に伴う自然条件の悪化と設備の老朽化などが,採掘条件・保安条件を低下させ,合理化の限界となった。下山田炭鉱では同42年下期,石炭鉱業合理化事業団から隣接鉱区を譲り受け,最後の合理化努力を試みたが,同45年1月ついに閉山となり,70余年の歴史を閉じた。




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「角川日本地名大辞典」
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