正段島村
【しょうだんじまむら】

旧国名:筑後
(近世)江戸期~明治9年の村名。筑後国山門(やまと)郡のうち。南流して有明海に注ぐ沖端川左岸に位置する。村ではあるが柳川城下のうちに含まれ,宮永組に属す。村高は,「正保国絵図」「元禄国絵図」ともに85石余,「天保郷帳」127石余,「旧高旧領」177石余。明治5年の反別は11町余(郡郷/立花家文書)。慶長年間,田中吉政入国による城郭の拡張工事で,東を流れていた沖端川が当村西側にほぼ直角に流れることとなった。集落は三軒町・志賀町・南正段・中正段・北正段に分かれている。地内志賀開には藩主の船着場が設けられ,また三軒町別荘は出漁の時の休憩所・宿泊所であった。屋形船や投網船が沖端川・有明海に浮かび,アカメ・ヤスミ・ハクラ・ボラ・エビナ・マウオなどを獲り,船方がお船謡を歌った。領民もここだけは投網が許されていた。水軍の水練場も設けられた。地内には,元久年間勧請の九社宮,天正16年創建の志賀神社,寛永7年開基の等応寺がある(柳河年表/県史資料5)。明治9年筑紫村の一部となる。現在の柳川市筑紫町のうち。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7211816 |