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中鶴炭鉱
【なかつるたんこう】


中間市と北九州市八幡西区にまたがってあった炭鉱。穂波郡幸袋村に生まれた伊藤伝右衛門は,早くから父伝六を助けて炭鉱経営に当たったが,明治31年から中野徳次郎と共同で,嘉穂郡鎮西村の牟田炭鉱を経営して成功した後,同35年8月,鞍手郡西川村の泉水炭鉱を譲り受け,さらに同39年2月,遠賀(おんが)郡長津村に中鶴炭鉱本坑を開坑,9月に竪坑を開削した(筑豊石炭礦業史年表)。同41年11月には長津村の新手鉱業所を岡田三吾(第十七銀行頭取)から譲り受け新手炭鉱として,残柱式採炭を行った。中鶴炭鉱では同42年7月に五尺層下・高江炭層採掘のため,排気坑坑底から試錐に着手し,坑夫数も707人を数えたが,坑夫の移動率は高く,農商務省の「鉱夫調査概要」によると,この年傭入1,090人に対して退山数は1,045人であった。同43年12月に坑外無極索道高架桟橋が竣工し,輸送開始。翌44年8月には五尺層~三尺層間の水平坑道を掘進し竣工,7月にはランカシャー汽缶11基を設置した。この年10月,長津村鳳凰炭鉱を買収した伊藤は,これを第二新手炭鉱と改称して継承する一方,中鶴炭鉱の運搬および通気用斜坑開削中に,大正2年11月末,342間で高江炭層に着炭した。こうして中鶴・新手・第二新手・泉水・牟田の各炭鉱を経営するようになった伊藤は,ほかの石炭資本との競争上,資金・技術および販売面の制約を打開するため,確実な共同経営者を求めた。折から新坑の確保を求めていた古河鉱業との協議が成立し,同3年4月,伊藤・古河折半出資の大正鉱業(資本金300万円,伊藤側は中鶴坑など現物出資,古河側は現金出資,全額払込済)が設立された。社長には伊藤伝右衛門,専務取締役には古河の西部鉱業所長,井上定次が就任し,伊藤側が採炭を,古河側が販売を担当する共同経営が発足した(古河鉱業創業100年史)。中鶴炭鉱では同4年に蒸気ポンプを全廃して電力に切り替えたが,翌5年11月に新坑における人車運転と入気増量の目的を持つ人車捲揚坑道の開削に着手し,同7年には年産規模30万t台を達成した。次いで同8年2月,遠賀郡に斜坑を開削,大根土炭鉱と名付け,同10年6月に着炭,残柱式・長壁式併用で採炭したが,昭和2年9月に中鶴第2坑と改称した。大正8年9月27日に中鶴坑内で出水,死者8人を出したほか,同15年9月には大根土坑坑夫600人が賃金の6割値上げその他の要求を掲げてストライキをするなど,第1次大戦後から昭和初期の不況期には経営上の困難も多く,昭和3年に電気エンドレス上綱式200馬力1台を新設したほかは,同4年に休坑中の新手炭鉱を小林勇平に譲渡したうえ,同5年に泉水炭鉱休坑,同7年8月に第2坑大根土坑事業縮小,労働者の3割,127人が整理に追い込まれ,資本金も昭和5年5月,270万円に減資した。しかしその後戦時体制に向かって中鶴の1坑・2坑を中心に増産に転じ,「本邦鉱業の趨勢」によると同8年に2,830人の坑夫で52万5,894tの生産を上げた。この頃,中鶴1坑は五尺層の一部が後退式であるほかは,いずれも前進式長壁法で,五尺層は主にピック採炭,高江層では削岩機による発破採炭を行い,採掘跡は硬充填していた。同11年12月14日にガス炭塵爆発が起こり,死者10人・重軽傷者16人を出してからは発破採炭をピック採炭に切り替えた。なお中鶴1坑の水洗能力は,同12年頃,毎時100tであった。中鶴2坑では,すべて前進式長壁法で削岩機による発破採炭を行い,採掘跡は硬充填した。選炭能力は毎時50tであった。昭和11年,大正鉱業は約4,000人の従業員で,年産74万3,102tの記録を作った。しかし同12年,中鶴1坑左部に400馬力のエンドレスロープを設置するなど増産の努力にもかかわらず,それ以後出炭は減少し,特に同16年6月には中鶴の1・2坑が出水によって水没したため,同年の出炭は38万tに減少した。その後,復旧作業が行われたが,出炭は同17年約30万t,同18年約36万t,同19年約33万tで,回復は思わしくなかった。このため同19年4月に新たに中鶴3坑を八幡市に開坑,同20年8月には第一垣生炭鉱を買収して中鶴5坑と改称した。戦後,財閥解体によって古河鉱業は大正鉱業との関係を絶つこととなり,再び伊藤家の単独経営となった。戦後の中鶴炭鉱は,同26年にカッペ採炭を採用し,同27年には重液選炭機を設置するなどの近代化によって,同31年当時,約500万坪の鉱区に約3,000人の労働者を擁し,年産規模50万tを維持していた。しかし反面,昭和24年の企業整備で第5坑を中心に人員整理を行い,同29年5月には第3坑を休坑して鉱員345人を本坑へ配転した。また昭和23年6月に上津役炭鉱(遠賀郡香月町上上津役,従業員150人),同29年6月に東中鶴炭鉱(香月町上上津役,従業員180人)の2つの租鉱権炭鉱を創業させた。その1つ,東中鶴炭鉱で同32年11月25日,古洞出水事故によって死者18人を出した。その後石炭斜陽化の中で,大正鉱業は同34年10月初旬,新中鶴炭鉱の竪坑(170m)工事に着手し,また同月新1坑で厚層の採掘を終わって薄層に移るに当たって,国産試作第1号のパンツアーローダーを投入し,翌35年2月,東中鶴鉱の直営と本坑の一部集約化によって,136人を開発中の新中鶴坑に配転する合理化案で組合と妥結するなどの生残り策を講じた。しかし同年10月,賃金の23%引下げなど20項目の合理化提案を組合に提示し,組合が賃金遅払いに抗議して合理化案の撤回を要求したことから,いわゆる大正鉱業争議が起こった。争議は銀行の融資停止による経営危機の下で,経営側の閉山示唆に対する組合側の閉山阻止,企業再開闘争の形となり,いったん同36年10月,企業再建協定が結ばれた。この間銀行側のテコ入れで経営陣の交替が行われ,同37年1月,田中直正社長となったが事態は好転せず,結局同39年12月,負債51億円を抱えて会社は解散,炭鉱は閉山となった。そして同40年11月22日,中鶴・新中鶴炭鉱とも石炭鉱業合理化事業団による閉山交付金が決定し,その60年の歴史を閉じた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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