中野村
【なかのむら】

旧国名:筑後
(近世)江戸期~明治9年の村名。筑後国三潴(みずま)郡のうち。筑後平野のほぼ中央,花宗川と沖端川の両下流に挟まれた地域に位置する。荘園開発の時代から近世初頭にかけてクリーク(濠)が整備され,今日の日本屈指の溝渠地帯をなすに至る。文禄4年の立花家知行目録には,「弐百拾四石弐斗四升 なかの村」と見える(県史資料4)。はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領。今松組に属す。村高は,「元禄国絵図」243石,「在方諸覚書」の古高360石余,「天保郷帳」246石余,「旧高旧領」365石余。文化4年には本田13町3反余・開田2反余・畑2反余・居屋敷2反余(農政農民史料集)。元久2年山城国より勧請したという八幡神社がある(社方開基)。明治9年三八松村の一部となる。現在の大木町三八松のうち。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7213325 |





