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浜口町上
【はまぐちまちかみ】


旧国名:筑前

(近世)江戸期~明治7年の町名。江戸期は博多の1町。御笠川下流左岸に位置する。東町流のうち。三奈木黒田家所蔵福博古図によると,南は東町下,北は浜口町中に続く縦筋町。古くは恵比須町ともいわれた(続風土記付録)。澳浜恵比須社があったことに由来する町名で,同社は漁師など漁業関係者の信仰が厚かった。往古には櫛田神社の神輿の御旅所で,また箱崎八幡宮も毎年神幸したという(石城志)。元禄年間の家数26,宝暦年間の家数35,間数126間余(続風土記・石城志)。天正15年の太閤町割に際し,島井宗室は当町に表口13間・入30間の宅地を賜わり,永代町役を免除された。宗室は,朝鮮・博多・上方間の貿易に活躍した初期豪商。また,諸大名への貸金や抛銀で巨利を得たという。信長・秀吉の知遇を得て活躍し,黒田長政の福岡建設にも尽力した。宗室と神屋宗湛・大賀宗九の3人を博多三傑という。晩年,養子徳左衛門に残した17箇条の遺訓は有名。当町の西側商家の裏に万四郎神社があった。密貿易で処刑された伊藤小左衛門と一族郎党を祀り,小左衛門の三男小四郎,四男万之助の名から社名がついたと伝えられる(石城志)。貞享4年正月14日,松浦肥前守の城下通行に際しては,人足馬継所が当町に置かれ,左右の家は助郷馳走の人足を指し出すよう命ぜられた。宝暦5年崇福寺裏畠と大福寺畠でとれる野菜を,作人が官内町の入口周辺で押売りしたとして,当町と官内町の八百屋が訴え,禁止されたという(博多津要録)。江戸初期から中期にかけては豪商の住む活気ある町であった。慶応2年当時は,島井久左衛門・神屋善四郎の共同経営で旅出雑穀が商われ,運上銀500匁が納められた。次が呉服店を営む笠野屋五平の390匁。ほかに三島屋七兵衛が旅人宿・代呂物問屋,小倉屋久右衛門がびん付油,八百屋甚右衛門が野菜・てぼそうけ店を経営していた。また,くし細工・水牛細工・打綿・藍染・鍛冶と様々な職人も多く住んだ(博多店運上帳)。明治4年の町格は中で,8貫文余の定切銭を納めた(石城遺聞)。明治7年上浜口町と改称。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7213910