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柳川藩
【やながわはん】


旧国名:筑後

(近世)江戸期の藩名。柳河藩とも書く。外様大名。大広間詰。天正15年6月5日,秀吉の九州平定に功績のあった立花宗茂は筑後国三潴(みずま)・下妻・山門(やまと)・三池4郡13万2,184石を受封し,ここに柳川藩が成立した。宗茂はさっそく領内検地,寺社の城下への移転や創建を行った。そして小田原の陣,文禄・慶長の役に参戦。慶長5年,関ケ原の戦では西軍に属したため,11月11日除封となる。宗茂は,加藤清正の食客となり,肥後玉名郡高瀬に居住,その後畿内・江戸を遊歴し,同15年7月27日陸奥棚倉3万石の領主となった。一方,宗茂除封後の柳川城には,三河国岡崎・西尾10万石の城主田中吉政が,東軍に属して石田三成を捕らえた論功により,筑後国一円32万5,000石を与えられ,慶長6年3月に入部した。吉政は筑後の領国経営にあたり,久留米・福島・高尾・榎津・赤司・城島・黒木・松延の支城に一族・重臣を配置し,筑後川・矢部川流域の改修,柳川城地の拡張と5層の天守閣の構営,山門郡矢ケ部村から久留米に通ずる街道(久留米街道・柳川街道・田中道)の新設,三潴郡の古賀村・浜武村や有明海沿岸の諸村の開拓奨励,大川から柳川・大和・三池郡渡瀬までの有明海沿岸32kmに及ぶ慶長本土居の築堤工事などを行った。吉政のあとを継いだ忠政は,元和2年大野島村,翌3年浮島村を開いた。同6年8月7日江戸にて死去したが,世嗣断絶のため領地没収となる。同年陸奥棚倉3万石の城主立花宗茂が10万9,647石1斗9升7合の大名として再封した。藩領域は,「寛文朱印留」によれば,山門郡一円86か村・5万7,371石余,三池郡のうち47か村(東濃瀬・西濃瀬・北新開・南新開・亀尻・宮部・久福木・三池町・小船津・手鎌・草木・田崎・田隈・四ケ・上内・坂井・倉永・甘木・黒崎・元・尾尻・豊永・岡松・伏部・隈・深倉・深浦・池田・豊持・下内・怒縄田・亀崎・高泉・大間・横須・平野・田尻・原・楠田・江浦・江浦町・今福・古賀・岩津・浦・飯江の各村および大牟田村のうち)・2万7,518石余,三潴郡のうち12か村(浜武・古賀・田脇・久々原・間・小保・津・一木・網干・幡保・蒲池・金納)・1万4,536石余,上妻郡のうち16か村(四条野・白木・本山・北田・土窪・木屋・大淵・矢部・山崎・鹿子生・兼松・谷川・原島・辺春(へばる)・田代・田形)・4,303石余,下妻郡のうち8か村(禅院・山中・小田・坂田・本郷・茅司・吉岡の各村および長田村の一部)・5,916石余で,総計10万9,647石。「旧高旧領」では,山間郡一円115か村・7万7,948石余,三潴郡のうち27か村・2万1,516石余,三池郡のうち55か村・3万8,248石余,下妻郡のうち10か村・7,529石余,上妻郡のうち18か村,1万449石余とある。領内の行政区分には大庄屋が管轄する組制が採用され,山門郡に蒲池・宮永・垂見・本郷・竹井・小川の6組,三池郡は楠田・田隈の2組,上妻郡は谷川組,在方は9組であった。在方の郷士制度としては上妻・山門郡の猟師を支配する在郷家臣山筒頭が置かれ,矢部の五条家の世襲であった。三池郡には上内山筒組があった。宿場町には山門郡瀬高上庄町・瀬高下庄町・原町,三池郡渡瀬町・三池町(市場町でもある),三潴郡小保町,上妻郡山下町があり,町別当が置かれた。宿場以外の在町には山門郡沖端町・中島町・本吉本町・野町(市場町)・紺屋町・吉井町,三池郡江浦町,下妻郡唐尾町,上妻郡兼松町,三潴郡住吉町などがある。藩の米蔵は三の丸蔵・田町蔵・瀬高蔵・島堀切(中島)蔵,ほかに大野島蔵・黒崎開蔵があった。領内の主要交通路は薩摩街道・柳川街道・柳川瀬高街道・肥後街道などがあり,柳川城下の札の辻(札辻本町,現在の辻町)を基点に領内に一里石が設置された。江戸には上屋敷(下谷徒町)・中屋敷(浅草鳥越)・下屋敷(浅草末)の江戸屋敷が設けられ,大坂の蔵屋敷は中ノ島常安町にあった。文政末年に物産方を設置して蝋専売を実施し,嘉永年間には浜会所(焚石山会所)を設け,石炭を販売した。柳川地方は,クリークが縦横に走り,有明海沿岸の干拓が藩営・家臣請負・町人請負などで行われた筑後地方の穀倉地帯である。立花氏は宗茂のあと,忠茂・鑑虎・鑑任・貞俶・貞則・鑑通・鑑寿・鑑賢・鑑広・鑑備・鑑寛と12代が在封した。忠茂は,正保2年に矢部川改修工事を行い,万治元年には家臣の知行制を蔵米制に改めた。鑑虎は,寛文5年領内での宗門改めを開始し,延宝元年には黒崎開を完成した。また天和2年~貞享4年に領内総検地を実施し,新たに2万石近くを打ち出し,年貢5万5,000余石を算出した。鑑任の時,外小路(現在の新外町)にあった会所を本小路(現在の本町)の布橋傍に移し,隠居した鑑虎はその跡地に別業御茶屋集景亭(現在の御花・立花邸)を完成,翌11年雪峰山下に別業雪峰院を造った。鑑通は,宝暦9年矢部川河畔本郷に別業水御殿を造営,また矢部川朝鮮松原の西南磧の広場に藩兵の調練所を設けた。安永3年7月26日,人別改めによる領内の人数は9万4,586人を数える。鑑寿の時,寛政元年家老立花寿・十時恰らは寛政改革を断行,旧習派家老小野勘解由は,同10年閏7月立花寿・立花通栄を解職,寺社奉行十時恰・池田五右衛門を蟄居,物頭戸次半以下数十人に逼塞を命じた。鑑賢は,文政7年に藩校伝習館(現伝習館高校)を創立。この年検見法を反見から石見に改めた。同年から同9年にかけて郷方仕組を制定。安政6年,鑑寛は,家老立花壱岐を登用して財政再建と軍備の充実を企図する安政改革を断行した。まず,物産会所を設立し,預り手形10万両の藩札を発行,藩は領内商人にこの藩札で産物の買い付けをさせ,長崎に送って販売し,その交易利潤を藩庫に収めさせた。藩札・物・現金が鼎の足のように回って藩財政を潤すこの仕法を鼎足運転の法という。この仕法ではかなりの成果があがり,洋式銃の購入などに潤得分が充当された。万延元年評定所を設置。元治元年11月14日第1次長州戦争で,立花熊千代は隊兵を率いて筑前植木に屯営,慶応元年11月15日第2次長州戦争でも植木に出兵。同4年戊辰戦争に柳川藩兵300余人が会津若松に出兵した。明治4年7月14日廃藩置県により柳川県となる。




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「角川日本地名大辞典」
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