両替町
【りょうがえまち】

旧国名:筑後
(近世~近代)江戸期~昭和48年の町名。江戸期は久留米城下の1町。城の南正面,外濠に沿って位置し,西は亀屋町に続き,東は片原町と交わる。地名の由来は,当町の草創期に掛屋などの金融業者が居住したことにちなむと推測される。当町目付の鎰屋理助の藩への書上には,元和7年に先祖が移住とある。「家勤記得集」の承応2年外濠普請の条に当町名が見える。当町居住の町別当布屋掛りに属した。宝永年間の家数72(啓忘録抜萃)。享保11年の城下大火後,濠際の家並みは原古賀町(はらんこが)町などへ移された。安永年間の町間数3町余(筑後志)。東・西・流れの3町で構成される。「延宝絵図」によると,両替町横町と記され,「筑後志」に間数34間とあり,1丁目から南の呉服町通りへ抜ける道をいうが,店構えはない。当町東端の外濠にかかる狩塚橋は,久留米町人の城内への唯一の通路で,橋際に寛延2年直訴箱がおかれた。天明5年,藩校修道館(はじめ講席と称した)設立。天保元年藩接客用の御使者屋が片原町から移され,明治維新によって三潴(みずま)県庁が置かれた。同県庁は,明治11年御井郡編入後に郡役所として使用され,同22年久留米市となってからは市庁舎となる。明治17年の戸数42・人口320。明治13年士族授産の厚生社設置。翌年両替小学開校,同20年久留米警察署開設。同22年久留米市の町名となる。同23年久留米絣同業組合事務所設立,同26年渡辺五郎らによる南筑私学校開設。昭和4年久留米市公会堂建設と市庁舎新築,同13年市図書館開設など公共機関が並立した。大正14年戸数80。昭和20年一部地区が戦災にあうが,2丁目に両替町公園を設置した。同45年の世帯数82・人口318。同48年全域が城南町となる。なお,町名は公園名に残っている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7215691 |





