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鹿島藩
【かしまはん】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の藩名。外様大名。柳間詰。鍋島直茂の次男忠茂(初代本藩主勝茂の弟)は,関ケ原合戦で鍋島氏が西軍に味方したので,戦後家康に対する忠勤のため江戸に人質として出される。忠茂は徳川秀忠の殊遇をうけ下総矢作(やはぎ)に5,000石を得,慶長13年病のため帰国した。帰国後に忠茂は鹿島に2万石を与えられ,ここに鹿島鍋島家が成立する。ただし,その時期については,「鹿島年譜」「鍋島和泉守忠茂譜」によると慶長14年とされ,「餅木鍋島系図」「勝茂公譜考補」「寛政重修諸家譜」では慶長15年のこととしている。なお,「県史中」「佐賀藩の総合研究」では前者を採る。忠茂は寛永元年矢作で病没し,遺領は子の正茂が襲封したが,本藩主勝茂はその五男直朝を正茂の養子にすべく再三強要した。このため同17年正茂は義絶して鹿島の封を捨て,矢作の石高をもって幕府旗本となり江戸に去る。3代鹿島藩主として直朝が入城。3支藩が幕府に公認されたのはこの直朝時代のことと考えられ,「県史中」では寛永19年以後,正保2年以前と推測し,「佐賀藩の総合研究」では江戸への参勤交代が認められた寛永17年のこととする。ここに公式に支藩としての鹿島藩が成立した。藩主は忠茂―正茂―直朝―直条―直堅―直郷―直凞―直宜―直彝―直永―直晴―直賢―直彬の13代。なお,3支藩は自治権を有し,幕府に対して大名並みに参勤交代・普請役・御馳走役を負担するが,幕府から朱印状を交付される独立支藩と異なり,佐賀本藩の内分支藩で本藩の支配権に抱束される。明暦2年の知行高は2万石,物成8,000石(泰盛院様御印着到)。忠茂入封当時の領域は,常広・東常広・森・土井丸・中・井手・大牟田・真崎・袋の9か村で地米約4,990石余,能古見(のこみ)村で地米約5,000石(常広村日記)。慶長16年の三部上地で袋・真崎・大牟田・井手・東常広・土井丸・森の7か村地米約3,000石余が本藩へ引き上げられた。寛永13年直朝が正茂の養子に決定した時,森・土井丸の2か村地米約1,000石が本藩より譲与された。天保3年の鹿島私領村々畝数石高帳によると,藤津郡鹿島郷5村1町で田畑屋敷305町9反5畝19歩・地米2,840石余,同郡能古見郷24か村1町で田畑屋敷茶畔764町1反2畝15歩・地米5,159石余,合計田畑屋敷茶畔1,070町8畝4歩・地米8,000石。嘉永6年写の「大小配分石高帳」では,鹿島郷6か村で地米2,840石余,能古見郷26か村で地米5,362石余,合計地米8,202石余。直朝は民政を重視し,土工を興し木庭・浅浦・山浦・古枝の4川を疎通させ,堤防を10か所築き灌漑の便に供した。海岸には土地を埋築して40余籠の新田を造成。直朝の夫人(祐徳院)は京都花山院左大臣定好の女,万子媛(後陽成天皇の第3皇女准后清子内親王の養子)で,寛文2年の婚儀の際,父定好から授かった同邸内の稲荷大明神の分霊を古枝村に祀る。同社が祐徳稲荷神社である。鹿島城とも呼ぶ領主館は常広村にあり,常広城ともいう。寛政~文化年間には塩田(しおた)川の氾濫で再三水害に遭う。9代直彝は幕府の許可をうけ文化3年より高津原に新館の築造を始め,同4年6月完成し移転。館は明治7年の佐賀の乱に際し,官軍に呼応した大村藩兵が来攻するとの噂に留守居役が放火し,本丸の正門(赤門),大手門を残して焼失した。藩領内の鹿島・能古見両郷には大庄屋・代官各1名を置く。文化4年の鹿島城移転後は,南鹿島が城下として形を整え,大手・東町の新町名も誕生。上級家臣は館下に集住,他の家臣は高津原・浜を中心に各村に散在。藩行政組織は請役・相談人・御目付・勘定所・寺社奉行・郡奉行・町奉行などを置く(鹿島請役所日記)。鹿島・浜の2町に御高札方・御番所役や別当・咾(おとな)を置く。浜宿は有明海からの荷揚場としてにぎわう。安政5年の鹿嶋家中着到帳によると,親類1・家老4・番頭12・番頭格1。全体を各組に分け,番頭・家老が組頭で,侍・仲小姓・歩行・小道具・足軽を統率。家臣は侍132人・仲小姓215人・歩行158人・被官109人・小道具13人・足軽150人の総計777人。藩財政については「相良手控写」中の明暦2年の「鹿島藩のよしめ金覚え」によれば,藩物成8,000石の内訳は,192石は上げ持(架空の石高)で残り7,808石のうち,3,195石余が家来配分高,137石余が寺社免・家中屋敷・諸村蔵床で,4,744石余が蔵入り。実際は2,3割の落米があり,約3,600石が藩収入である(鹿島市史)。大坂で販売できる蔵米は2,500~2,600石で,銀換算で110~120貫にすぎず,干拓と杉の植林を奨励。参勤交代・公儀奉公は藩財政を圧迫し,寛政10年に上支配格となり,財政を本藩に委託し,相続米・合力米(米の無償融通)や援助金に頼らざるを得ない状態となる。文政元年藩主直彝の隠居に際し,本藩は同藩の取りつぶしを企てるが,小城(おぎ)・蓮池(はすのいけ)2支藩が三家格式を口実に猛反対し,中止となる。しかし,本藩主斉直は,幕府に願い出て,鹿島藩の公務(参勤交代・御馳走役・普請役等)を5年間停止してもらう。嘉永元年にも本藩は合併を図ったが,支藩の反対で実現せず,幕府は同年より再度藩の公務一切を免除。安政元年には公務免除が3支藩に及ぶ。同5年より長崎防備強化のため,参勤在府が100日に短縮される。明和2年の支配地惣高並びに現米総高巨細取調録には,諸産物として,櫨蝋・茶・陶器・瓦・炭・紙・煙草・摺蝦(すりえび)・水母・酒・焼酒・竹材がある。明治4年鹿島県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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