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呉服町
【ごふくまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は唐津(からつ)城下の1町。町田川左岸,城下町の中央部に位置し,東は中町,西は米屋町と接する。唐津築城時の総町十二か町の1町で内町のうち。町人地。町名は,築城時大手門に直接向かい合う当町が呉服屋の軒が連なるほど繁華な町になるようにという願いから名づけられたという。菊屋石崎氏は安永年間に新設された大町年寄を勤めた。文化年間頃の町筋は南北1町25間,古来本軒34,当時人数158(男77・女81),引合五人組53人(うち町年寄苗字帯刀御免1・組頭2・御肴屋1・酒屋4・糀屋1),ほかに御用船問屋・質屋,安楽寺があった。また御用肴屋の市兵衛,御用豆腐屋の甚兵衛は並御目見格(松浦拾風土記)。江戸期は富商が軒を連ね,煙草屋辻家は御腰物師御綿御用を勤めた呉服屋,亀屋辻家は酒造屋,具足屋山内家は木炭問屋であった。真宗大谷派護念山安楽寺は豊臣秀吉の名護屋在陣中の端坊を毛利元春の三男順了が当町に移転(唐津拾風土記抄・松浦記集成)。寛政11年当町ほか9町は,辻番所2か所と毎年10月から3月までの自身番の設置は負担が大きいので,辻番所1か所は夜番とし自身番も辻番所で兼ねたいと藩へ願い出ている。当時は町火消し石崎支配組に所属(諸事控/唐津市史)。天保15年当町の曳山「義経の兜」は4番曳山として石崎八右衛門が製作。幕末に藩は百工方という役所を新設し,産物を取り扱う係り役人に当町から瀬戸屋峰新兵衛・酢屋吉村儀助を任命。明治元年の軒数51・人数181(唐津市史)。同3年当町の辻甚兵衛は腰物師と綿屋の株仲間筆頭であった(正円寺文書/唐津市史)。唐津藩領最後の町年寄は峰新平・山内利右衛門(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)。「明治11年戸口帳」では唐津町のうちに「呉服町」と見え,戸数55・人口224。同11年具足屋山内準治は内町戸長・内外町戸長を勤めた。明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属。明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち。明治30年の人口404(唐津市史)。同31年鉄道が開通し唐津駅と官庁街を結ぶ町筋に位置する当町は江戸期に引き続きにぎわい,明治末年には魚屋町の繁華街をしのぐほどとなった。以来唐津市最大の繁華街として現在に至る。大正末年当町中央に十七銀行唐津支店(戦後福岡銀行唐津支店と改称)が開業。昭和40年代に大名小路へ移転。大正4年の戸数60・人口279。世帯数・人口は,大正14年50・268,昭和5年47・284,同35年56・323,同41年57・242。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216974