対馬藩田代領
【つしまはんたしろりょう】

旧国名:肥前
(近世)江戸期の対馬藩の飛地領名。筑前・筑後・肥前の3国に境を接する交通の要衝である現鳥栖(とす)市田代および三養基(みやき)郡基山(きやま)町一帯である。基肄(きい)郡と養父(やぶ)郡半分は,天正15年豊臣秀吉が九州平定後小早川隆景の領地となるが,慶長4年隆景の子秀秋が越前に転封後,対馬領主宗義智が文禄の役の勲功によって領有していた薩摩国出水郡1万石の替え地として与えられた。田代町に代官所が置かれていたため対馬藩田代領と称す。対馬の宗氏は中世以来対朝鮮貿易を財政の基盤とし,貿易権を基本として家臣団を形成した。文禄・慶長の役により日朝間の国交が断絶した際は苦境に立たされたが,江戸幕府成立後は日朝の国交回復に奔走し,その功績により貿易の独占を許された。実質上の土地生産高は2万石足らずだが,朝鮮との外交業務により10万石の格を与えられた。慶長10年朝鮮との講和に尽力した功で同地において2,800石余を加増されたが,このほか1,000石が家臣柳川智永に宛行われ,基肄郡園部村が柳川氏の知行地となった。寛永12年,柳川騒動に際し園部村1,000石は幕府領となったが,正徳元年には対馬領に戻った。柳川騒動とは,寛永8年柳川智永の子調興が宗義成に対し所領と歳遣船派遣の権利を返し主従の関係を断ちたい旨を申し出,両者の確執が深まり幕府に訴え対決した事件。この結果は柳川氏の国書改竄の暴露や幕府の許可なしに将軍使船を朝鮮に送ったことの発覚などにより宗氏の勝訴となったが,園部村は幕府領に編入された。田代領の初期の検地記録は文禄4年と慶長14年の2回が確認される。文禄検地当時は小早川氏の所領であったため,その養子となった羽柴筑前守秀秋の家人山口玄蕃と長崎伊豆守により行われ,玄蕃竿と呼ばれた。検地高は,基肄上郷9か村(宮浦・城戸・小倉・長野・奈良田・野口・永吉・柚比・金丸)で畝高401町4畝8歩・石高3,514石,基肄下郷12か村(神辺・萱方・古賀・河内・田代・曽根崎・原・姫方・幡崎・飯田・酒井・水屋)で畝高443町1畝6歩・石高4,041石余,園部村129町5反5畝19歩・石高1,565石余,養父郡10か村(牛原・養父・蔵上・宿・鳥栖・藤木・今泉・瓜生野・真木・高田)で畝高514町3反20歩・石高4,280石余,総畝高1,487町9反1畝23歩・総石高1万3,402石余。慶長検地は当時の代官古藤三郎左衛門により行われたことから古藤竿と称され,加増分の2,800石を含め畝高77町9反3畝15歩・石高4,472石余の増高が打ち出された。また文政10年の内検高は2万395石余に増加している。同地の中心であった田代町には田代代官所が置かれ,郡宰(代官)・郡佐(副代官)・計吏らがいた。各村には庄屋,基肄上郷・基肄下郷・養父郡には各1名の大庄屋,田代・瓜生野西町には別当が置かれた。代官は対馬から派遣され,頻繁に交代した。銘記すべき代官として,延宝3年より11年間任官した賀島兵介成白がいる。賀島は農民の借米・借銀の償却に助力し,銀米借質奉公の大部分を身請けさせた。賀島は貞享2年に退任したが,大小庄屋11人は兵介の残した教訓や仁政を録した「基養父実記」を編纂した。同書は農民が書いた記録として貴重である。田代領の住民身分で注目されるのは奴婢制度の存在で,これは対馬から移入されたものと思われる。元文2年犯科の百姓が大庄屋に奴格として与えられているほか,永代奴・永代婢・三年切奴・五年切奴など多くの事例が見られる。また,正徳3年には農民の中から郷足軽50人を定め,田代領内の治安維持と百姓の徒党の早期発見をめざした。寛永後期以降の朝鮮貿易不振に伴い財政困窮が増したため,対馬藩では貿易振興と藩財政再建を目的に寛文改革を行った。この改革の余波をうけて,田代領では年貢の増徴が行われ,郷村の零落が進行した。延宝5年の飢餓人数は基肄上郷144人,基肄下郷・田代町308人,養父郡・瓜生野町231人の合計683人に及ぶ。このため延宝期から天和期にかけては借銀・借米の10年賦・5年賦返済策や救米策,堤防普請・川普請など,領民の困窮を救う諸策が実施された。また元禄12年には農民の願出により,年貢が穂検免(検見制)から並定免(定免制)に改められ,田代領全体の平均年貢率は3割9分余となった。18世紀後半からの藩財政破綻に伴い,天明年間には従来の郷村における商工業禁止政策を転換し,産物助長奨励策を進めた。特産物の薬は,こうした背景から注目を集めた。薬は藩が輸入した朝鮮人参を主要な原料とした。薬は,当初飢饉に際し栄養失調の農民に分配されていたが,天明8年に売薬を公認し,運上銀を徴収した。許可証をうけた50人の売薬業者の運上銀は600匁で,売薬と藩財政との結びつきができた。当初は基礎が弱かった田代売薬も徐々に「かくれ売り」の実績より販路は九州全域に及び,富山の行商人と競い合った。明治2年の総株数は80株,売薬人は80人を上回っている(鳥栖市史)。また,櫨の栽培奨励のため,嘉永5年に生蝋会所を設け,専売制がとられた。戸口の推移は,寛永11年7,800人,享保2年の竈数2,707・人数1万2,031,安永10年の竈数2,812・人数1万2,775,文政9年の竈数2,904・人数1万3,797(基山町史),嘉永5年の人数1万5,339,明治2年の人数2万546(県の歴史)である。明治2年厳原(いずはら)藩と改称。明治4年厳原県となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7217695 |