西松浦郡
【にしまつうらぐん】

(近代)明治11年~現在の郡名。明治11年の郡区町村編制法の施行によって,松浦郡が東西南北の4郡に分けられたことにともなって成立。東は八幡岳(764m)で東松浦郡・杵島(きしま)郡と接し,西は国見(くにみ)山(777m)で長崎県北松浦郡と接している。南は幕ノ頭(320m)から神六(じんろく)山(447m)へかけての台地を境に長崎県東彼杵(ひがしそのぎ)郡と接し,北は東松浦郡と接している。明治11年の成立時の町村数は16町90か村・反別7,691町余・地租7万2,877円・戸数1万2,794戸・人口5万6,913人(県史下)。郡役所は伊万里(いまり)町に置かれた。明治22年市制町村制実施により,当郡は伊万里町・有田(ありた)町と牧島・黒川・大岳・南波多・大川・松浦・大坪・大川内・新・曲川・大山・二里・東山代・西山代の各村,計2町14か村となった。明治21年の「県統計書」によると,戸数1万2,039戸,人口は士族3,406人・平民5万7,977人であった。明治22・23年の「県統計書」によると,田4,343町・畑3,029町,田畑の小作地率は,田が自作地1,463町・小作地2,880町で66.3%と県内では杵島郡に次いで高く,畑が自作地1,525町・小作地1,504町で49.6%となって平均(41.6%)を上回っている。また,専業5,124町・兼業3,162町となっている。明治31年の「県統計書」で商業戸数の内訳をみると,総戸数1万1,866戸に対して,問屋16戸・仲売24戸・卸売35戸・小売1,140戸・雑商1,136戸となっている。合資会社は2社にすぎず,東松浦郡に比して企業活動は低い。明治43年の「県統計書」によると,ウシ2,447頭・ウマ2,361頭でほぼ同数に近い。平坦部と山間部の耕地面積があまり変わらないことを示している。また所得構成をみると,300円以上881人・500円以上373人・1,000円以上133人・2,000円以上28人・3,000円以上20人・5,000円以上10人・1万円以上3人となっていて,県内では中位にあった。明治36年刊の森錦洲著「肥前国誌」によると,戸数1万1,911戸・人口6万8,436人で,地勢は西北の久原および楠久津(東山代村)から東南の桃川(松浦村)までの中部一帯は,比較的平坦で肥沃なため,田畑,米麦によく,西南および東北の両部は山間高原が多く,麻・楮栽培に適しているという。また郡内には水損・干害は少なく,道路は唐津方面から徳須恵(とくすえ)・伊万里を経て東山代に出て海岸をぬって北松浦郡の今福・調川・御厨の諸村を経て平戸に至る道,伊万里から有田・早岐(はいき)を経て佐世保に至る道,伊万里から大川内を経て杵島郡住吉に出て三間坂に至る道,伊万里から桃川を経て杵島郡若木村・北方駅に至る道などが挙げられている。物産は米・麦・陶器・石炭・塩・鯛・鯖・鰮・鰤・鮪・烏賊・雑魚などがみえる。鉄道は明治31年に九州鉄道の武雄(たけお)~早岐間が開通して,長崎までの早岐まわりの長崎線が開通,同年に九州鉄道が伊万里鉄道(伊万里~有田間)を買収,完成している。筑肥線が伊万里まで開通したのは昭和10年になってからである。大正期の工業生産額は,大正元年211万7,000円・同6年289万3,000円・同7年395万7,000円・同8年486万3,000円・同9年449万2,000円・同10年437万4,000円となって,大正8年がピークとなっている(県統計書)。大正元年には県下各市郡中で最も生産額が多いが,次第に東松浦郡に追い越されていく。同時代の米騒動において受けた救済資金などは9,630円で,救済を要する戸数758戸・人員3,577人。大正9年の国勢調査による戸数は1万3,621戸・人口6万8,222人であった。大正12年4月1日で郡制は廃止となり,同15年7月1日をもって郡役所も廃止となった。その後も,単なる地理的名称としてだけでなく,各種の団体などで便宜上,郡単位の呼称が残った。昭和29年伊万里市が発足して当郡から分離し,現在は有田町・西有田町の2町のみからなる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7218080 |





