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冬野村
【ふゆのむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。藤津郡のうち。布井野とも書く(文化3年佐賀藩寺院帳)。杵島(きしま)郡に属す場合もあった。杵島山南麓に位置し,塩田(しおた)川とその支流入江川に沿ってわずかに平地が開ける。佐賀本藩領。「慶長国絵図」では杵島郡のうちに見え,「白石ノ内」とあるが,「正保国絵図」では藤津郡のうちに見える。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」では,東冬野村は杵島郡白石(しろいし)南郷に属し,西冬野村は藤津郡塩田郷に属す。村高は「正保国絵図」では202石余,「天保郷帳」では236石余。「旧高旧領」には村名が見えない。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」では東冬野村の小村に渡場村・牛間田村がある。慶長16年「寛保差出写」に勝茂が鍋島五助に「白石冬野村之内」140石の知行を宛行っている。冬野堤の傾斜面に平安前期のものと推定される古瓦窯跡があり,また地内一本松の墓地内に瓦窯跡があり,朝鮮人の瓦焼きの跡といわれ,地内には高麗屋敷と称する地名が残る(久間村郷土志)。中世には天文13年に竜造寺氏と有馬氏との合戦場となり,竜造寺氏が大敗した。寛政8年の村絵図によれば,北東部と西部に山地があり,南西部は平地が開かれ,北は志田村,南は牛間田村,西は下久間村と接する。北西隅に堤があり,堤から南へ流れる川に沿って田地がある。また東の山中から西へ流れる川が2本あり,堤から流れる川と合流するが,この西流する小川の流域に畑地が広がり,御山方畑も混在する。集落もこの一角に存在する。用水は入江川・冬野堤・大谷堤・神水(しおい)川堤より取水。東部の山地は本藩の巻狩場で,農民の鉄砲使用が禁止されており,志田村・下久間村とともに猪の被害に苦しんだ(蓮池藩請役所日記)。蓮池(はすのいけ)藩領の下久間村と境界紛争を起こしたが,本藩領冬野村百姓に有利に解決した。天保2年以後は士気鼓舞の山地戦の演習地となった(久間村郷土志)。嘉永6年の藤津郡西分御蔵入配分御点役除役米帳によれば,地米高196石2斗余,うち除米は年々否相成定33石4斗余・大庄屋料3石9斗余・小庄屋料21石5斗余・村横目料5石余・鹿口除料21石1斗余・宿継料5石6斗余・竹木買料10石7斗のほか合計104石6斗余。牛間田(うしまだ)に天満宮があり,社伝によれば正暦年間当村と杵島郡牛間田村の氏神として創祀された。「明治7年取調帳」では久間村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば,久間村のうちに「冬野村」と見え,戸数88・人口460。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7218574