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伊勢町①
【いせまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は長崎外町の1町。陸手(おかて)に属した。長崎港に注ぐ中島川下流右岸,同川に堂門川が合流する付近に位置する。はじめ新高麗町と称したが,寛永年間地内の伊勢大神宮祠が再興されて豊受大神を勧請したため,延宝8年改称した。享和2年の長崎絵図によれば,長崎の北東端に立地し,町並みは南北に2筋延び,西端に伊勢宮が見える。正保4年の長崎外町ケ所数之帳では新高麗町と見え箇所数53(柏原家文書),寛文3年の町の長さ231間・家持35(寛宝日記),同12年の町の長さ268間,実箇所数59,諸役御免箇所3(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数3,838坪余,箇所数61,竈数168,戸数192・人数375(男188・女187)。地内には伊勢宮,寛永8年開創の浄土宗天霊山竜淵寺(現法寿山地福院),正保3年開創の真言宗能満堂大教院(のち廃寺),高麗橋などがあった。乙名職は,明暦2年頃は北島茂左衛門,延宝4年頃は日高長左衛門,元禄から宝永年間は井筒勝助であったが,享保年間に西川安兵衛が任じられて以来,安平次(宝暦年間),郷之進(寛政年間),六次郎(寛政8年~文化年間),丈兵衛(文化~文政年間),六次郎(天保~安政年間)と西川家が相続,さらに,安政6年からは宇野種太郎が勤めた。明治11年長崎区,同22年長崎市に属す。大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には長崎製飴合資会社などがあった。昭和3年の戸数96,同10年の戸数90・人口399,同50年の世帯数80。同56年一部が新大工町となり,出来大工町・新大工町の各一部を編入。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7219443