今籠町
【いまかごまち】

旧国名:肥前
(近世~近代)江戸期~昭和41年の町名。江戸期は長崎外町の1町。陸手(おかて)に属した。新籠町・大音寺籠町ともいう。長崎港に注ぐ中島川下流右岸に位置する。町名は,籠町(本籠町)より遅れて竹籠職人が開いたことに由来する。享和2年の長崎絵図によれば,長崎の南東部に立地し,町並みは東西に延びていた。地内には慶長19年開創の浄土真宗大谷山大光寺,寛永6年開創の黄檗宗聖寿山崇福寺,同18年開創の真言宗前熊山南光寺(のち天満宮),慶安4年開創の真言宗良泉院(のち廃寺)などがあった。正保4年の長崎外町ケ所数之帳では箇所数28(柏原家文書),寛文3年の町の長さ197間・家持32(寛宝日記),同12年の町の長さ233間,実箇所数42,諸役御免箇所3(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数4,075坪余,箇所数45,竈数127,戸数154・人数339(男174・女165)。乙名職は,明暦2年頃は大久保加兵衛,延宝4年頃は野口権左衛門であったが,天和2年から元禄14年まで鎰屋(浅井)九郎左衛門が勤めて以来,七郎次(元禄14年~宝永6年),茂藤次(宝永6年~元文2年),茂左衛門(元文2年~明和4年),為八(明和4年~安永3年),茂藤次(安永3年~文政6年)と,浅井家が相続,天保年間に一時島谷三郎兵衛が勤めたが,天保12年からは高石左右作が勤めた。明治11年長崎区,同22年長崎市に属す。大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には崇福寺・大音寺や料亭などがあった。昭和3年の戸数106,同10年の戸数112・人口508。大正2年高野平郷の一部を編入。昭和41年鍛冶屋町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7219513 |