麹屋町
【こうじやまち】

旧国名:肥前
(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は長崎外町の1町。陸手(おかて)に属した。長崎港に注ぐ中島川下流左岸に位置する。町名は,味噌や醤油・酒などの製造に必要な麹屋によって開かれたことに由来する。享和2年の長崎絵図によれば,長崎の北東部に立地し,町並みは南北に延び,北は八幡町,南は今紺屋町に隣接していた。なお,当町と今紺屋町との間に新紺屋町があったが,のちにその一部を編入した。正保4年の長崎外町ケ所数之帳では箇所数44(柏原家文書),寛文3年の町の長さ236間・家持41(寛宝日記),同12年の町の長さ247間,実箇所数47,諸役御免箇所3(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数5,098坪余,箇所数49,竈数267,戸数296・人数549(男275・女274)。当町には光源寺の飴屋の幽霊にまつわる幽霊井戸の伝説がある。乙名職は,明暦年間は井手市左衛門,延宝年間から元禄年間は井手市郎右衛門,正徳年間に井手藤吉と井手家が勤めたが,正徳5年に吉野茂兵衛が任じられてからは,利左衛門(宝暦年間),茂一郎(明和年間),栄左衛門(安永2年~文化8年),茂兵衛(文化9年~文政年間)と吉野家が相続,さらに文政7年に浅井宗十郎が任じられてからは,理三郎(文政8年~安政6年),泰作(万延元年~明治元年)と浅井家が相続した。明治11年長崎区,同22年長崎市に属す。大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には写真館・帳簿製造所・醤油屋などがあった。昭和3年の戸数188,同10年の戸数206・人口866,同50年の世帯数299,6街区。くんちの傘鉾は池島家の一手持で,献上紅白梅に金箔をおいた3枚の麹蓋に町名を記すといった,雅趣あふれるものであった。池島家は池正という骨董商で,当主池島正造は木下逸雲の門人で芦雁が得意であった。また,その子徳次郎も正造を襲名しているが,芥川竜之介はこの正造の時に同家を訪問,「長崎日録」のなかで庭園をほめている。昭和41年一部が八幡町となり,紺屋町・本紙屋町の各一部を編入。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7220606 |