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彼杵宿
【そのぎじゅく】


江戸期の宿駅名。東彼杵郡東彼杵町に所在。長崎街道の宿駅。北の嬉野(うれしの)宿へ3里。小倉から佐賀・大村藩境の俵坂を過ぎると大村湾が一望のもとに開け,この谷間を流れる彼杵川河口に当宿がある。当宿は海陸両路の要衝で海路は時津へ7里,上陸して長崎へは陸行3里である。松原へは2里,時津渡し・松原渡しと別々の渡場が設けられていた。陸路は千綿を経て松原宿へ2里半,城下町大村へは4里半である。また,ここは平戸往還の分岐点で川棚宿まで2里ある。この港は渡場だけでなく大村藩領西彼杵(にしそのぎ)半島の外海(そとめ)とを結び,陸路嬉野から塩田川を通り,有明海沿岸に通じていた。鯨の道であったことから元禄年間頃の捕鯨業の隆盛により港には荷揚げと塩蔵の問屋が並んでいたため彼杵川の右岸(北岸)にあった分流の河口を掘って築港した。入60間・幅10間で,両側には石の階段を設けた船繋が今も残っている。満潮時には八反帆位の船が出入できたという。その波止の新設・改修が行われ港は逐次整備された。元禄7年彼杵川左岸(南岸)にあった金屋町を堀川の北岸に移し,新しい金屋町ができた。堀川は宿場の中心で,長崎街道と平戸往還の分岐点もこの地点で,もとの高札場もここにあった。町は本町と金屋町からなり,本町は安政3年206軒で長崎街道,金屋町は78軒で平戸往還に沿っていた。本町には宿場町の機能が集中し,人馬とも継いだ。金屋町には馬継だけあったが,文政11年藩全体の諸事節約のため廃止され,本町だけが存続した。本町の継場は明治期に入って最初の郵便局が置かれた所である。茶屋といわれた本陣は平戸往還との分岐点を北に行った俵坂通りの現彼杵神社の社地に設けられ,472坪の敷地に5棟の家屋があった。寛永10年巡見上使小出対馬守・堀織部・能勢小十郎が廻国した時建てられたのが同茶屋の始まりである。脇本陣は茶屋と相対し,現在は民家となっている。制札場は堀川の側から,脇本陣の北隣に移され21枚の札が立っていた。旅籠は本町や金屋町に軒を並べていた。大村湾で一番大きい十五反帆の船2隻が就航し,彼杵~時津間は銀1匁3分(銭約120文)で陸路より船を利用する人が多かった。陸路は江串村(東彼杵町南部)から宮村(佐世保市南部)までの村々が助郷村であった。馬の背に36貫目までの荷物を載せることができたが,駄賃は文久年間大村まで180文,嬉野144文,川棚72文と定められた。元禄4年ケンペルは時津から船を利用し,「江戸参府紀行」を残している。吉田松陰は,「西遊日記」に嘉永3年,長崎に行く時は陸路を利用,帰路は松原から船で彼杵に渡ったとある。オランダ東インド会社の書記フィッセルの「参府紀行」では,文政5年諫早(いさはや)泊・彼杵泊の陸路利用であった。シーボルトの「江戸参府紀行」にも,文政9年2月,大村泊・彼杵泊で道中の模様が詳細に記録されている(東彼杵町夜話・大村藩の街道と宿場)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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