大吉町
【だいきちちょう】

旧国名:肥前
(近世)江戸期~明治11年の町名。平戸城下本町通十六町のうちの1町。また,平戸城下本町通六町の1つである新町に属す1町でもあった。平戸城の南西に位置する。築地埋立て以前は鏡浦の右岸に立地し,町屋の東端は平戸城正門に向かう大手ノ坂の登城口にあたる。その登り口に番所があり,また海手(のち河岸)に下関飛脚宿があり,町内には城内に至る要衝としての機構を一部備えていた。寛政7年の町方仕置帳によると,城下町の番人は11人が定置され,このうち本町通1町に2人(ただし魚の棚・新町は各1),職人町五町に各1人が義務づけられていた。当町は新町に属したので1人を出し,番人には給米4石ずつ,ほかに夜明油代として五斗が加算された。「天祥公御法度」には「番太郎切米四石五斗ニ相極,家有次第坪数割付相渡候,右之切米之内ニて油火焼候事」とあり,番人への給米は町内の各家の坪数に応じて割付けられていたことがわかる。町内にあった下関飛脚宿は,文政9年~天保6年の「飛脚之事」に「下ノ関飛脚之者平戸逗留中旅籠銭一日壱人壱匁七分宛相渡」とあるように,この飛脚の者たちが一時滞在した宿舎と考えられる。また下関飛脚と称されたのは下関が江戸・大坂への飛脚の主要な中継地となっていたためで,当時の飛脚のシステムは大坂↑下関↑平戸が雇飛脚,この逆の平戸↑下関は御手飛脚,下関↑大坂は雇飛脚が担当することになっていた。寛政3年頃の隣国御手飛脚賃銀定によれば,平戸から下関への飛脚賃銀は1人75匁ずつ,道中2日限りは2人指越150匁であった。天保13年以降,平戸から直接大坂まで御手船仕出しとなり,大坂で江戸からの状箱を請取って帰国することになり,月1度の本仕出日を毎月6日平戸発,同21日江戸発と定めた。なお安永2年建造の飛脚船神符丸が中絶したため,後年新造した神符丸3艘は,白木のまま張詰の屋形・惣垣立作りにされたと伝える(平戸史料年表)。明治11年平戸町に属し,新町の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7221424 |