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東彼杵町
【ひがしそのぎちょう】


(近代)昭和34年~現在の東彼杵郡の自治体名。大村湾の北東岸に位置し,江の串川・千綿川が流れる。彼杵町と千綿村が合併して成立。大字は編成せず。合併各町村の行政区を継承。昭和38年武留路郷が大村市に編入。世帯数・人口は,昭和35年2,440・1万2,807,同45年2,329・1万713,同55年2,447・1万353。農業人口は昭和35年の3,791が同55年には1,704に半減,逆に製造業従事者数は昭和35年の334が同55年には1,041と増加している。ただし,製造業従事者の大半は他市町への通勤者である。当町は平地が少なく,緩傾斜の台地が海岸に急崖で没入している。これが車両交通を著しく妨げていた。生産資材の入手と生産物の出荷に屈強な男子と牡牛を必要としたため,いかにして男子と牡牛を耕作に全面的に投入できるかが近代の課題であった。先覚者のいた地区では昭和20年代までに,婦人と牝牛とリヤカーで運搬できる農道網をつくりあげていた。昭和30年代の課題は目前まできていた車社会のため,車道を如何に整備するかであった。同34年台地にある一ツ石郷と国道34号を結ぶ大迫線が造られ,また彼杵地区では蔵本郷営農組合による農道の建設に始まって,昭和40年代から50年代にかけて大型の道路が奥地まで整備された。昭和55年の「農業センサス」によると,昭和45年と同55年の農業構造にかなりの変貌がある。昭和45年は当町の稲作減反のはじめである。近世以降水田農村としての基盤整備を一筋に行ってきたが,高度経済成長と地方経済の活発化もあって,農民は3方向に分かれた。果樹・茶園栽培や畜産,施設農業の専門化の道を進んだ者,余剰労働力を日雇等の臨時的な仕事に従事し,第1種兼業の形態を続けた者,および他に職を求め,第2種兼業となった者である。第1種兼業の従事者は山手に属する各郷で木炭や薪の衰微による者が多かった。第2種兼業の従事者は海岸の国道34号に面した郷に多い。こうした変化に対応し,水田の圃場整備を進め,昭和53年に赤木パイロットが完成。昭和47年に始まる新農政推進特別対策事業は,土地の有効な利用のため,茶園や施設農業に補助事業がなされた。農業の基盤整備に役立ったのは何回かの災害による復旧作業である。昭和32年の諫早(いさはや)水害に続き,同37年7月8日の台風17号の集中豪雨,同42年6~9月の未曽有の干害,同43年2月14日夜の大雪による人工林被害,同45年8月13~14日の台風9号,同51年9月13日の台風17号,同53年10月27日駄地郷を中心とした竜巻による建築物被害で,これらの復旧作業の中から恒久的対策も行われてきた。基盤整備にもう1つ役立ったのは防衛施設周辺整備事業である。大野原演習場の周辺諸郷は昭和41年の水道事業のほか溜池・道路・施設などの建設整備が進められてきた。全町の山林面積は昭和49年4,121ha,同59年は4,195haで大きくは増えていない。昭和48年の人工林63%・天然林37%(東彼森林組合資料)。木炭は昭和40年代後半から売行不振で,用材は戦前・戦後の復興に切り尽くされ,目下育成中で見るべき収入はない。漁業は大音琴・千綿宿・里と3つの漁業集落があり,漁港整備も行われてきた。昭和35年200を超えた漁業人口は同45年以降2桁になった。漁獲量も昭和49~53年は200t代であったが,同54年以降100t代になった。商業は国鉄大村線彼杵駅(蔵本郷)前の本町が中心で,町や町商工会が中心となって振興策を進めてきた。商圏は川棚町・大村市・佐賀県嬉野町に囲まれているため狭い。この中で茶商は地場産業のため多い。また鯨の塩蔵・販売も有名である。彼杵新港は昭和46年から第4次港湾整備5か年計画のもとで着工され,同52年3月に竣工。泊地7万4,000m(^2)・係留岸壁140m・物揚場50m・工場用地1万7,793m(^2)・公園275m(^2)で,工場用地には数社が進出し稼働している。長崎自動車道の建設工事は昭和61年に着手されており,インターチェンジが三根郷に設けられる予定である。彼杵港も高速道路と関連して今後の発展が期待される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7222428