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平戸町
【ひらどまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)織豊期~昭和38年の町名。江戸期は長崎内町の1町。陸手(おかて)に属した。長崎港に注ぐ中島川下流右岸に位置する。元亀元年戦国大名大村純忠が領内長崎港をポルトガル貿易港としたことに伴い,諸地域から長崎に流入する人口が激増した。これに対応するため同2年,純忠が港に突出した岬の高台に6か町を建設したものの1つ。以後の長崎の町の発展の基礎となったもので現市域の中心部に位置する。成立前の当地については,草原(カリアン書簡),麦畠(長崎剳記),森林(耶蘇会史)とも諸説があり一定せず。町割は大村純忠の家臣朝長対馬守が実施。町名の由来については,平戸から来住した者が主体をなしたことによるものらしい。天正8年4月純忠がイエズス会に寄進したことにより,教会領となり,天正16年豊臣秀吉の直轄領となる。文禄元年頭人に代わり町年寄設置,他の22か町とともに内町となり地子免除。慶長3年秀吉没後幕府領となり幕末に至る。寛永14年頃,元亀2年に同時に成立した横瀬浦町を併合。寛永19年の平戸町人別生所糺(にんべつせいしよただし)によれば,同町の家持・借家人計228人(男106・女122)。そのうち家持は約3割,他は借家人・町方奉公人で占めた。当時平戸出身者は住民の1割弱に減少。奉公人は下男下女合わせて80名に上り,年齢は8~60歳に及ぶ。出身は地元長崎のほか,大村・諫早・平戸・矢上の近郊,久留米・博多に及ぶ。住民には朱印船貿易家の石本新兵衛もいる。また中国・朝鮮からの渡来人も若干含まれた。これよりさきポルトガル人との通婚によってマカオに追放された者などがあった。住民は戦国末ほとんどキリシタンであったが,長崎奉行竹中采女正(寛永6~11年)の代に,大半が仏教徒に転宗した。寛文3年の大火により一部焼失。元禄12年内町・外町の区分解消。以後も幕末まで地子免除。「長崎古今集覧」によると町域は34か所(1か所は60坪)2,040坪であった。享和2年の長崎絵図によれば,長崎の西部に立地し,町並みは南北に延び,南は西御役所前で区切られ,南は本博多町に隣接していた。寛文3年の町の長さ127間・家持26(寛宝日記),同12年の町の長さ126間,実箇所数32,諸役御免箇所4(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数1,466坪余(地子銀免除),箇所数34,竈数51,戸数65・人数170(男87・女83)。明治11年長崎区,同22年長崎市に属す。昭和38年万才町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7222560