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矢上宿
【やがみしゅく】


江戸期の宿駅名。長崎市に所在。長崎街道25宿の1つ。彼杵(そのぎ)郡矢上村(佐賀藩諫早(いさはや)領)にあり,諫早3宿の1つ。日見宿まで1里,栄昌宿まで3里半,諫早まで4里。矢上村は佐賀藩の西端の地で長崎に最も近く,長崎奉行・長崎警備の諸藩,オランダ商館長その他公私の通行も頻繁な要地であるため,諫早領主は役屋敷を置いて番頭級の家臣を配し,宿を通る往還には関門を設け番所を置いた。領主の管理する上使屋も設けられた。正確な数字ではないが,宿は戸数200,旅人宿11,煮売店10,造酒屋7,人足駕丁100余であった(東長崎町誌)。享保17年の高来(たかき)郡宿継郡継仕組覚によると,矢上宿継所料米は3宿同額の46石5斗余,宿継別当給7石,立夫6,立馬2,不足のときは郷内から寄せ集めて継ぎ立て,また佐賀藩主・長崎奉行・隣国大名の通行の時には郷役として1宿に10人または20人を寄せ集めて用にあてた。奉行・大名の大通行の場合,宿継だけで継立人馬は賄いきれないので郡継によった。札馬は諫早100匹が定めで,嘉永6年の例では,矢上宿ではそのうち40匹を受け持ち,例年佐賀藩の札馬究が実施された。継立て上の慣例としては,寛政7年の日記(県立長崎図書館諫早文庫蔵)によると,長崎奉行の下向の場合日見人馬が矢上まで出迎えて継ぎ送り,同じく帰府の際は日見人馬が矢上まで付け届けて矢上人馬と継ぎ替えた。諸大名・勘定方・普請役・オランダ人の長崎行きの節も日見人馬が矢上に出張して継ぎ替え,帰路は長崎人馬が矢上まで付け送って矢上人馬と継ぎ替えた。漂着朝鮮人・諸国家来・社家・長崎役人の通行の節は矢上人馬が日見まで送って日見人馬と継ぎ替えた。人馬賃銭は,「佐賀藩の総合研究」によると,元禄13年には,諫早より矢上宿まで本駄賃136文,半駄賃86文,矢上より日見まで本駄賃30文,半駄賃20文。天明3年の日記(同前)によると,同年改定の賃銭は矢上宿から日見宿まで本馬51文,軽尻34文,人足26文,矢上宿から諫早まで本馬234文,軽尻155文,人足120文,安政4年には柄崎・嬉野(うれしの)・諫早・栄昌・矢上の5宿の人馬賃銭は幕府により5か年間3割増の改定を認められた。なお佐賀藩の御用は矢上から長崎まで人馬追通しで,寛政7年には本馬135文,軽尻90文,人足60文であった。矢上宿も佐賀藩の長崎御仕組のために,沓・草鞋・敷藁・干葉・薪・竹炬・荒糠(以上は郷物,郡中割りとし諫早私領方でとりまとめ),白米・大豆・銭・塩・手糠・火縄(最初のみ藩から支給,あとは私領方で引継ぎ更新)を保管・整備しておかねばならなかった。これを宿々用意物といい,札馬同様例年藩の検査があった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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