細工町
【さいくまち】

旧国名:肥後
(近世~近代)江戸期~現在の町名。はじめ1~4丁目,江戸中期からは1~5丁目がある。江戸期は熊本城下古町の町人町で,明治12年熊本区,同22年からは熊本市の町名となる。坪井川左岸,新町と古町をつなぐ橋の南詰あたりから南南西へ延びる町並みで,北から1~5丁目があり,江戸期から明治初年には細工1~5丁目と称された。ただし「肥後国誌」では細工1~4丁目と石塘町となっており,文化11年の肥後国郷村帳(県立図書館蔵文書)では細工1~5丁目となっている。もとは職人が居住していたが,天正19年の熊本細工町地割図(下川家文書/県史料中世5)によれば,職人を末町(新町内新細工町)へ移し,その跡,通り60間の東側に8軒,西側に10軒の地割をし,「大坂や・天満や・扇や・あかねや・ちやわんや・なや・堺や・はりまや・ならや・小間ノや・平野や・やハたや」などが居住した。のちには海産物卸小売商も露店を並べたという。享和元年の御府中小路町々并産物等之名(県立図書館蔵文書)には,細工町の項に市と扱う品を掲げ,「石塘朝市,野菜・菓・柑・熨斗鯣・昆布・荒和布・若和布・麩・菊池苔・清水苔・干物類・鶏卵・晒葛粉等其他品々・脇差の拵・柄・研・人形・雛・甲・絹織・蚕飼・養命酒・雲竜水・土器・亀屋饅頭」などが見える。天正年間に山鹿郡片保田村から浄土真宗西光寺が2丁目へ移転し,慶長10年西光寺内に常通寺,また慶長年間に西顕寺・浄影寺・光善寺・専崇寺・明教寺・寂静寺・長善寺が建立された。また天正年間阿弥陀寺村から熊本城下へ移転した阿弥陀寺は,慶長年間洪水に苦しんで当町の3丁目へ再移転した。なお藩は城下町統治のため懸制度をとり,懸の下に各町人町を従属させたが,細工町は1~5丁目のほか,新町の新細工町と高麗門町を加えて細工町懸を構成した。明治16年の戸数・人口・民有耕宅地面積は,1丁目59・234・8反4畝余,2丁目60・265・4反9畝余,3丁目63・281・9反3畝余,4丁目81・352・9反7畝余,5丁目32・141・4反2畝余(県公文類纂/県立図書館蔵文書)。大正4年の戸数・人口は,1丁目37・216,2丁目68・470,3丁目61・369,4丁目69・347,5丁目30・194。昭和45年の世帯数・人口は,1丁目44・153,2丁目29・97,3丁目66・233,4丁目47・142,5丁目38・127。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7225315 |





