100辞書・辞典一括検索

JLogos

67

苦竹村
【にがたけむら】


旧国名:肥後

(近世)江戸期~明治9年の村名。合志(こうし)郡のうち。地内には早くから町場が形成され,慶長2年苦竹町が成立している。熊本平野北東部,堀川上流の東山川流域に位置する。江戸末期までに町村から分村して成立。熊本藩領。村高は「旧高旧領」532石余。はじめ大津組に属す。「肥後国誌」では,町村のうちと見え,大津手永に属し,高903石余,「里俗苦竹町ト云,大津町ノ続」とあり,神社は天神社・阿蘇三宮大明神社,寺院は慶長17年開基の浄土真宗西派大願寺。同書によると,当地は苦竹のみ茂る広野であったが,天正年間加藤清正により近くに大津宿が設置されることになり,3年間年貢免許の地とされたため各地から農民が集まり,慶長2年に苦竹町が成立,元禄2年には町場の位置が変わり,宝永7年農家の半数はもとの場所に帰住したという。もとの集落は大津村と陣内村の中間にあり,大津宿設置とともに瀬田上井手筋中流,大津宿とその西の塔迫村の間に,大津町の上町・下町からの移住者などを加えて移った(大津史)。瀬田下井手が集落を縦断したための集落移転でもあったが,のち一部の人々はもとの地に帰り,江戸末期までに同所を新村として分村(同前)。寛永10年の人畜改帳では本苦竹村・上苦竹村・下苦竹村に分けられ,本苦竹村は戸数13,高265石余,人数71(男45・女26),牛13・馬18,庄屋は孫右衛門,上苦竹村は戸数9,高175石余,人数51(男30・女21),牛12・馬8,下苦竹村の同帳は2冊からなり,1冊は戸数17,高263石余,人数80(男48・女32),牛14・馬20,庄屋は七右衛門,もう1冊は高66石余,戸数4・人数44(男24・女20),牛9・馬9となっている。宝暦10年の田畑下名寄帳(県立図書館蔵文書)によれば,反別42町2反余うち上知田畑37町6反余,高493石余で,その内訳は田23町余・高378石余,畑14町6反余・115石余。寛政7年の大津手永略手鑑(肥後藩の農村構造)では,高493石余,反別は田23町・畑14町余,高札15枚・揚酒本手1本・質屋札2枚・綿引本手1張・藍瓶3本・鍛冶職1人が許され,水車1がある。大願寺門前の瀬田上井手に架かる石橋は肥後の石工による江戸後期の橋の1つ。熊本県を経て,明治5年白川県に所属。同9年室町の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7226907