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東下田村
【ひがししもだむら】


旧国名:肥後

(近世)江戸期~明治9年の村名。阿蘇郡のうち。阿蘇南郷谷,御竈門山の西,夜峰山南麓の斜面に位置する。地名の由来は,当地方一帯の白川沿いの水田地帯が上の田に対する下田と呼ばれたと思われ,当地はその東部にあたることによるとみられる。中世には阿蘇権大宮司下田家の管轄下にあったといわれ,地内に西野宮・久木野宮がある。また地内の小村小沢津については,文明16年8月28日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇文書/大日古13‐1)に「下田之分」として「一所おさうつ〈まめ一斗〉」と見える。江戸中期までに下田村から分村して成立。熊本藩領。村高は「旧高旧領」526石余。布田手永に属す。「南郷事蹟考」では,高670石余,新地方として小村の宮寺村が見え,神社は天満宮2・久木野社・西野宮,寺院は浄土真宗西派光雲寺(肥後国誌)。同書によると,下田村の項に当村が下田村からの分村であることが記される。小村の宮寺村を江戸末期までに分村。「肥集録」は,当村の小村に本畑・日向園・中家・戸屋の尾(現登屋野)・田端を載せる(肥後国地誌集)。宝暦7年の南郷布田手永万覚付手鑑帳によれば,庄屋は次平,高670石余でうち515石余は藩士4人の知行地,竈数68,人口は男148・女132,引高13石の御山の口1人,牛48・馬44,野開16町6反・請藪1町7反余・新請藪2反余,茶9升余,鳥鉄砲札3枚,酒屋1,光雲寺には住僧がおり,西宮三社大明神には社人がおり,久木野宮大明神・吉成寺・福寿庵・天神社などは無住(肥後藩の農村制度)。なお,同帳の当村には宮寺村も含まれていたと思われる。当村および下田村・川後田村の産土社西野宮は阿蘇本宮に対する西の宮の意で,昔,阿蘇大宮司が下野の狩をする時の祈祷所と伝え,延徳2年に下田城主下田右衛門尉宇治惟続が願主となって奉納したと伝える高さ3尺の撞鐘がある。久木野宮は,阿蘇都媛の産殿を隠すために阿蘇大明神が一夜にして築いたという夜峰の南麓にある。また西野宮の東の登屋野には布田手永の仮会所跡,古学校跡などがある。西野宮の南下に吉祥寺の堂があり,本尊毘沙門天・脇侍吉祥天女・禅尼子童子などいずれも5尺ほどの木像を有し,境内の榧の大樹に子安貝が生じ,安産・夜泣きに効があると伝え,貝を借りて帰り,願がかなえばもとの木に返すという。光雲寺は薬師如来を祀る天台宗寺院であったが,寛文4年僧了意が本尊阿弥陀仏を迎えて浄土真宗に改めたといい,古くは南方田の中の小丘上にあって,現在古光雲寺と称している。また付近には下田城の支城田中城跡がある。明治6年後藤基行覚書(一の宮町岩下氏蔵文書)によると,戸数88,人口は男213・女198。熊本県,白川県を経て,同9年熊本県に所属。明治8年河陽小学校設立。同9年河陽村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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