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古麓
【ふるふもと】


旧国名:肥後

八代(やつしろ)平野南東部,八丁山西麓に位置する。地名については,南北朝期に征西将軍宮が拠ったところから府本と称したとする説もあるが(肥後国誌),八丁山の山麓の意と思われる。南北朝期から戦国期にかけて名和氏・相良氏の居城であった麓城が置かれたが,天正16年に小西行長の家臣小西美作守行重が麓城を廃して,新たに麦島に築城したため,当地を古麓と称するようになったという。麓城は,八代城・内河之城・八町岳城などとも称し,「八代日記」文亀3年11月15日条に「於麓近(進カ)陣也」と見え,相良氏は名和氏と合戦し,翌年には名和氏を八代から追い出している。なお同書天文4年3月26日条には「長唯様守山ヨリ麓のことく御帰宅」とあり,相良氏は当地に鷹峰城も構えて,八代の支配にあたった。麓は城下町として栄え,同じく永禄8年6月26日条に「上津浦殿ふもとニ御上候,御小宿斗屋也」と見え,斗屋という商家の存在がうかがえるほか,相良氏家臣の屋敷が並んだという。なお同書永禄7年12月6日条には「八代麓ハ深サ一尺五寸積候」とあり,当地に大雪が降ったことがわかる。また地内の松尾については,元中4年と推定される7月4日付の征西将軍宮令旨(相良家文書/大日古5‐1)に「松尾赤山両城難儀之時分」に相良一族が同心して忠節を尽くした旨が記されているほか,戦国期には「八代日記」などの史料に松尾の地名が散見する。なお南北朝期の小代光信軍忠状(詫摩文書/南北朝遺1498)には「同(建武)三年三月廿三日属于大将軍一色殿御手,可馳向同国八代黒鳥城之由,預御教書之間,以同廿五日馳向彼城,追落凶徒等畢」とあるが,この黒鳥城について「肥後国誌」は,「八代郡ニ黒島ト云地名ナシ,乃チ内河ノ城攻ノ時ナレバ疑クハ麓城ノ事ナルヘシ」「黒鳥モ亦地名ナシ」と記している。また暦応元年12月日の朝町禅恵軍忠状(宗像神社文書/南北朝遺1301)では,八代黒鳥合戦での軍忠が少弐頼尚に報告され,黒鳥の地が合戦の舞台となったことがわかり,黒鳥は地内の一部と考えられている。地内には山下古墳・郷内古墳があり,新城登り口の小丘上の大光院跡には片岡云正の墓がある。また飯盛山麓には麓城主相良義陽の首塚,上り山鰾谷(にべだに)口に林鹿庵跡・長福寺跡,大永2年銘の来迎弥陀の板碑,芭蕉谷に名和顕興館跡・大書院跡がある。
古麓村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
古麓(近代)】 明治22年~昭和30年の宮地村の大字名。
古麓町(近代)】 昭和30年~現在の八代市の町名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7227576