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柳水村
【やなぎみずむら】


旧国名:肥後

(近世)江戸期~明治9年の村名。合志(こうし)郡のうち。阿蘇立野火口瀬の西方,白川中流右岸の河岸段丘と杉水台地との境界線上に位置する。地名に関しては,阿蘇大明神が,ある茅屋に立ち寄って水を求めた時に主の入道が御馳走でもてなし,糊の米を誤ってこぼしたことに感じ入り,明神が「ここに田を植うべし」とを立てたところ,たちまち水が湧き出たとする伝承が残り,柳水の地名はこれにちなむと伝えるが,詳細は不明。なお当地は合志の七水の1つに数えられていた(改訂合志川芥)。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」271石余,「正保郷帳」も同高でうち田9石余・畠262石余,「天保郷帳」487石余。「旧高旧領」323石余。江戸末期までに馬場村を分村。はじめ津久礼組に属す。「肥後国誌」では大津手永に属し,高213石余,小村に出分が見え,神社は天神社,地内に天台宗の古跡揚水寺跡がある。なお同書によれば,当村の新地として馬場村が記されるほか,同村に属する北方村も当村の新地という。江戸初期の瀬田上井手の開削で水田化が進んだが,水は不充分で灌漑水利に苦しんだ。氏神の柳水菅原神社(天神社)の勧請は文亀元年という(菊池郡市神社誌)。なお,慶長9年の検地帳(県立図書館蔵文書)によれば,田7反余・9石余,畠68町9反余・262石余,同13年の検地帳(同前)では,田7反余・10石余,畠88町7反余・475石余,人数43,牛3・馬9。寛永10年の人畜改帳では,戸数2,高84石余,入作分217石余,人数は男9・女7,牛4・馬4,家数12,屋敷反別2反余,庄屋は惣左衛門。同年の柳水村出分人畜改帳では,戸数6,高166石余(居百姓分),畠高17石余(入作分),合計183石余,人数は男23・女17,牛10・馬8,家数35,空家4,屋敷反別6反余,うち1反余は空屋敷,庄屋は次郎左衛門尉。宝暦13年の田畑下名寄帳(県立図書館蔵文書)によれば,給知田畑20町5反余・306石余,新地3町9反余・13石余,野開14町1反余。同年の給知田畑地引合改見図帳(同前)によれば,給知のうち田6町8反余・181石余,畠13町6反余・125石余。寛政7年の大津手永略手鑑(肥後藩の農村構造)によれば,高・反別は宝暦13年の給知石高と田畑反別に同じで,人数241,牛馬40,庄屋は三郎右衛門,質屋札1枚が認められていた。天保15年の同手鑑によれば,竈数46,瓦蔵4,土蔵8,庄屋上田多十郎,石橋1,内膳殿(有吉)御赦免開田畑2町1反余,同立山4町8反余,田畑下名に東ノ前・向下原・中ノ割・水尻・佐渡原・小平ノ上・大人足・村上・前道・居屋敷がある(大津町史研究2)。熊本県を経て,明治5年白川県に所属。同9年原水村の一部となる。




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「角川日本地名大辞典」
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