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万寿寺
【まんじゅじ】


大分市金池町5丁目に所在。臨済宗妙心寺派。山号は蒋山。創建開基とも未詳。万寿興聖禅寺ともいう。伝説によると,百合若大臣の姫万寿姫が賊に殺害されたのを悼み,追善のため建立されたという(豊後国志ほか)。その後の消息は不詳であるが,徳治元年大友4代貞親が再興し,蒋山万寿禅寺と名付け,聖一国師の弟子直翁を招き開基とした(大友家文書録/大友史料4)。その後建武元年,大友8代氏時が洛南禅寺雪村を招き住持にしたと伝える(豊後旧記)。文和元年12月27日,足利義詮は元光西堂和尚に万寿寺住持職を安堵しており(前田家文書/大友史料7),文中2年3月には独峯清曇を万寿寺住持にしたという(豊陽古事談/大友史料8)。これより先の嘉暦2年7月7日,大友6代貞宗の自筆手印の誓文によって,判多(はんだ)郷・宝満寺・坂田寺・松本名・光吉(みつよし)新開・寺辺屋敷畠地などが寺領として確定した。しかし,万寿寺北辺屋敷畠地などは,古国府(ふるごう)闕所の薄地と相博され,保寿寺が建立された。その保寿寺は,数年にして荒廃したので,文和4年首座智徹らが連署し,もとのように返付されんことを請うている(大友文書/県史料26)。寺領のうち,松本名は志賀氏の手に渡ったらしく,応永の乱を機に再び万寿寺領となっている。また寺領坂田村の住人は,田原筑前守の乱に同意し,志賀氏によって成敗され,志賀氏が領掌するところとなった。永享12年には松本名夫丸は志賀親資から大友親綱へ差し出されている(志賀文書/大友史料11)。文明年間,大友氏の財政は国中平均の未納により窮乏していたため,惣領親治は諸郷荘に対し点役を催促した。直轄地直入(なおいり)郷に対しても,代官志賀氏に催促しているが,郷内にある万寿寺領・勝光寺領については免許している(志賀文書/大友史料11)。また,永正4年3月親治は由原(ゆすはら)宮(賀来(かく)社,現柞原八幡宮)造営について,旧規に任せ国中平均間別銭を下知しているが,この時も万寿寺は免除されている。これより先の文亀元年12月の由原宮遷宮等次第記(柞原文書/県史料9)によれば,万寿寺が御簀御誂として7尺間2枚および鎰2個,御簀縁および懸緒2間を勤仕しているのは,寺家としての協力を申し渡されたためであろう。正平17年豊後に侵入した南朝勢は,北軍大友攻略の本陣を万寿寺に置き,府中および高崎城を攻め,また,中国の大内盛見を攻め殺した大友持直を攻めた幕府・大内・大友親綱軍も万寿寺を本陣としており,永享8年閏5月19日には石見勢100余騎が着到している(安冨文書/大友史料7・田北文書/県史料25)。万寿寺の規模は,住僧100余人を擁する裕福な寺であったが,文明11年11月18日陥落し,廁にいた沙弥1人・喝食1人だけが助かったという(宣胤卿記/大友史料12)。宝永3年の碑文(雉城雑誌)によると,寺領1,000余貫界分,東西230歩・南北360歩。大殿・山内・法堂・僧堂・輪蔵・鐘楼・四閣・開山塔・十門之塔・院54院・諸寮・諸室・諸堂を配置していたとある。終見の史料は天正10年正月22日の大友義統条々事書(大友松野文書/県史料25)で,柴田筑前入道に万寿寺築地の内と西の屋敷を与え,万寿寺町屋敷のすべてを預けている。元亀・天正の兵火に罹り,寛永8年現在地に移され,丹山禅師を中興の祖としたという(雉城雑誌)。なお,大友氏時代の旧府内城下図(史料集成付図)によると,大分川の右岸,現大分市大字大分のうち帆秋精神病院・みどり十字乳業の一画にあったとなっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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