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八坂新荘
【やさかのしんしょう】


旧国名:豊後

(中世)鎌倉期~室町期に見える荘園名。豊後国速見(はやみ)郡八坂(やさか)荘のうち。文永7年3月の宮清弥勒寺領注進抜書に,「同弥勒寺領西宝塔院家庄……八坂新庄 大神新庄」とあるのが初見(菊大路家文書/鎌遺10613)。弥勒寺西宝塔院家の所領であった。「生桑寺文書」にも,八坂新荘に1艘の船の造船を命じ,博多に回漕させた断簡文書がある(県史料25)。「弘安図田帳」には,「八坂荘二百町 宇佐弥勒寺領 下荘百町……本荘五十五町……若富名五十町(五町の誤り)二段……新荘四十町 八坂五郎左衛門跡弥五郎親盛跡弥次郎忠継,惟継嫡孫而相続」と見える(大友史料3)。八坂荘200町のうち40町を占め,地頭は八坂一族であった。新荘と名づける以上,八坂荘のうちで,最も新しく開発立券されたものであろう。八坂川下流域右岸で,現在の杵築市大字日野の中に新庄がある。八坂下荘中村薬丸名・延道名などと交錯する形になるが,この新庄一帯に比定されるのではなかろうか。この付近は鎌倉期は八坂川の海水が浸入し,塩田もあった。遠浅のデルタの地が新たに開発されて水田化し,新荘と名づけられたものと推定される。今は杵築市の宝庫といわれる地域。開発者は地頭八坂氏であったかもしれない。弥勒寺新宝塔院に供米を貢納していたらしく,正慶2年閏2月18日供僧晴秀の申状により,探題北条英時は古後六郎に命じ,地頭八坂孫太郎の下知状の有無を注進させている(宮成文書/県史料24)。室町期は守護大友氏の支配に属したもののごとく,(永享8年)閏5月27日,大友親綱は「八坂新庄内〈馬々 末永〉分,松行買得地等,并本庄新右衛門尉跡,同所宇野伊勢守跡五町・木付持分七町余・富永跡之内弐町余事」を斎藤著利に預けている(大友家文書録/大友史料10)。これが当荘の終見。近世は杵築藩領新庄村として存続。




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「角川日本地名大辞典」
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