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吉藤名
【よしふじみょう】


旧国名:豊後

(中世)鎌倉期から戦国末期に見える名(みよう)の名。豊後国大分郡稙田(わさだ)荘のうち。障子岳山麓に位置する。現大分郡野津原(のつはる)町大字入蔵周辺。大神氏系図に,稙田氏五代有綱が平氏の鎮西下向に当たり,臼杵・緒方氏等一族と共に源氏に味方し,平氏を追い落とした恩賞として,吉藤名・野津原郷を与えられ,後に長男清綱が相伝したというが,裏付け史料はない。「弘安図田帳」に,稙田荘325町内として「吉藤名四十町,豊前大炊蔵人能泰〈法名道善〉」とあるのが史料としての初見。三浦本は4丁に,竹田津本は豊前三郎蔵人能泰〈法名道善〉に作る。能泰は大友2代親秀の三男で,大友系図にある野津原修理亮法名道善(喜)である。能泰の子能基が稙田氏の養子となり8代稙田朝綱を名乗る。養父忠綱の死により家臣間に抗争が起こったため,しばらく実父能泰が野津原城(鷲ケ城か)を管理したという。これによって能泰が地頭職を帯していた理由がうかがえる。能基が稙田氏の養子になったのは,大友氏の土着過程で多くみられる養子政策によるものである。永正13年12月,大友親安(義鑑)は原尻藤十郎に吉藤名内居屋敷3貫分を預けている(大友家文書録/大友史料14)が,これは吉藤名に対する大友惣領家支配を示すものである。終見は文禄元年3月写の稙田荘名々給人注文で,「七十貫分すいくわう寺領,四十貫分ふわう殿,三十貫分摂津殿,十七貫文吉水殿,三十五貫分斎藤殿,三貫分原尻跡,三貫分小井手分,十貫分紀伊六左衛門殿,百貫分大田,十六貫分田北殿,二十貫分臼杵殿,九貫三百分浦上殿」と見える。合計300貫300文の名であり,内容からみて天正年間のものと思われる(利光文書/県史料26)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7234122