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戸渡呂瀬谷村
【ととろせだにむら】


旧国名:肥後

(近世)江戸期~明治4年の村名。肥後国球磨(くま)郡のうち。米良山中の1村。田無瀬谷村・津留谷村・納瀬谷村・村所谷村と合わせて村所と称することもあった。九州山地中央部,一ツ瀬川上流の山間地に位置する。地名の由来は瀬が多いことにちなむという。肥後国人吉藩領。ただし,人吉藩の付属ながら旗本交代寄合衆として参勤交代を勤めた米良氏が,幕府鷹巣山として支配していた。「元禄郷帳」「肥後国誌」には村名は見えない。村高は,「天保郷帳」では2石余。寛政2年「肥後国球麻郡米良山郷村并人高帳」(西米良村史)によれば,総人数は7で,うち男4・女3と見える。宝暦8年,村所村および横野・板屋(谷)・八重・深瀬・竹原・勘女来(上米良(かんめら))の7か村の領民は,申し合わせの上で誓詞血判し,米良七郎左衛門武吉こそが旧主であると時の領主米良主膳に反し,鹿児島藩領須木郷に逃散した。その後も宝暦10・12年,明和4年と3度にわたり領民の須木郷への逃散があったが,明和5年裁断が下り,獄門2名・死罪4名を含む255名全員が処罰された(同前)。明治4年村所村の一部となる(郡行政/県古公文書)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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