100辞書・辞典一括検索

JLogos

102

都城島津氏領
【みやこのじょうしまづしりょう】


旧国名:日向

(近世)江戸期の鹿児島藩の私領名。日向国諸県(もろかた)郡都城郷を支配した都城島津氏(寛文3年までは北郷(ほんごう)氏と称した)の支配領域。鹿児島藩は,領内を113の外城(郷)に分け,藩士(郷士)を各外城に配置したが,このうち21郷には一所持(いつしよもち)という島津宗家の三男以下の支族家に宛行い,一定の自治を認めて私領と呼んだ。都城郷はこの私領の1つで,日向国の鹿児島藩領では唯一の私領である。都城領ともいうが,本辞典においては都城島津氏領と表記した。都城島津氏は,古くは北郷氏といい,祖は島津家4代忠宗の6男尾張守資忠で,「北郷資忠譜中」(旧記雑録前17)によれば,正平7年4月筑前金隈合戦の功として足利尊氏から「北郷三百町」を下され,同年12月北郷のうち安永に入部し北郷氏を名乗ったという。そして,資忠の子義久の時の天授元年都島に都城を築城し,都城に拠点を移したといわれる。戦国期には伊東氏や北原氏の侵入に苦しめられたが,北郷氏8代忠相の時に都城盆地の統一に着手し,のち都城・安永・山田・志和池・野々美谷・梶山・梅北・勝岡・山之口・高城を支配領域とした。天正15年豊臣秀吉の九州仕置を経て,文禄3~4年に秀吉による検地が行われるが,それが終了した文禄4年8月,北郷氏の支配地は伊集院忠棟(幸侃)に与えられ,北郷氏は薩摩国宮之城3万7,000石に移された。しかし,伊集院忠真の庄内の乱後の慶長5年,12代忠能は旧領への復帰が許され,再び都城に居を移した。領地は,都城・安永・山田・野々美谷・志和池・高城(たかじよう)・山之口・梶山・勝岡・樺山の地である。のち慶長19年勝岡・山之口・高城の地は本藩に上地し,残る地は都城郷あるいは庄内七ケ郷と称され,明治維新まで続いた。歴代領主は,忠能・翁久・忠亮・久直・久定・忠長・久理・久竜・久茂・久般・久倫・久統・久本・久静・久寛。はじめは中世以来の都城(現在の城山公園)に居を構えていたが,元和年間に山麓の平地に館を設けて移った。領地高は,慶長17年検地4万1,300石余,同19年検地4万4,400石余,同年勝岡・山之口・高城の上地により3万230石余となり,のちまた検地を行って3万5,624石余(蔵入地2万814石余・給地1万4,810石余),明暦3年検地2万9,952石余,享保検地3万3,329石余,弘化4年には3万5,345石余(蔵入地2万558石余・給地1万4,786石余)とある(日向国史下)。所領は26か村で,後久村・田部村・鷺巣村・早水村・郡元村・川東村・宮丸村・安久村・寺柱村・前川内村・下長飯村・木之前村・高木村・金田村・水流(つる)村・山田村・梅北村・上長飯村・野々美谷村・横市村・五拾町村・西岳村・中霧島村・岩満村・石寺村・丸谷村(薩藩政要録)。ほかに都城島津氏領の飛地として諸県郡牟礼水流(高崎町),大隅国曽於郡菱田村(鹿児島県曽於郡大崎町菱田),同国姶良郡小廻(同県姶良郡福山町小廻)などがある。これらの村々は庄内七ケ郷と呼ばれるように7つの区画に分けられ,城下の都城のほかに安永・山田・野々美谷・志和池・梶山・梅北の各郷に分けて支配された。また,「都城五口(いつくち)六外城(むとじよう)」と称されるが,これは城下の都城のうち中世以来の城であった都城(現在の城山)の城下を五口といい,新城下(市街地)を麓,他の6郷を六外城と総称したものである。五口とは中尾口・鷹尾口・弓場田口・来住口・大岩田口といい,麓・外城と区別した行政単位として残し,噯(あつかい)・横目・庄屋が置かれ,武士は家老に属する番頭の支配下に入れられた。六外城には都城島津氏家臣の重職の者が就任する地頭が置かれ,各地頭配下の噯・横目・庄屋などが郷内の支配にあたった。鹿児島藩が領内を113郷(外城)に分け地頭を配したのと同様に,私領主である都城島津氏も領内に6郷(外城)を設けたのである。門割制度や年貢制度,宗教政策なども同様に,本藩に準じて行われた。「薩藩政要録」によれば,衆(家)中士4,397人・家中士人躰2,351人,所惣高3万4,124石余・家中高1万3,267石余(うち寺社高1,307石余),用夫707人・野町用夫207人。「要用集」では,家中士5,402人・家中士人躰2,307人,所惣高3万4,059石余・家中高1万3,296石余(うち寺社高1,307石余),用夫1,358人・野町用夫513人。文政9年の「宗門手札御改人数総之事」には1万8,991人とある(薩藩政要録)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7236148