上知識
【かみちしき】

旧国名:薩摩
米ノ津川下流西岸の平坦地に位置する。知識の地名の由来は,南北朝期尾崎城(知識城)に居城していたこの地の土豪知識氏の名前によるものか。横尾の縄文貝塚は,大正9年本県で初めて学術調査をうけ,九州で馬骨を最初に発掘し縄文時代の馬の棲息を確認した。溝下古墳は北薩地方特有の地下式板石積古墳である。はやく慶長4年正月9日付で豊臣氏五大老が島津忠恒(家久)に与えた知行目録がある(旧記雑録)。これは文禄の役中に没収され豊臣秀吉の蔵入地となっていた出水(いずみ)郡地方が,朝鮮半島からの撤退作戦の論功行賞として島津氏に返付されたもので,そこには「一,四百六拾五石壱斗五升五合〈薩摩国出水郡之内〉上知しき村」「一,五百五拾六石六斗八升五合〈同〉中知しき村」「一,五百六拾九石九斗八升五合〈同〉下知しき村」「一,八拾石弐升五合〈同〉高瀬村」「一,百九拾四石三合〈郡山村〉」と見える。この目録に見える知識は出水平野の洪積台地の末端が米ノ津川沖積平野に接する場所で,上流から順次上・中・下知識村となっており,上知識村は一番南の現八坊集落あたりにあたる。したがって江戸期の上・下知識村とはその範囲を異にしている。
【上知識村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【上知識(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7237109 |





