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北種子村
【きたたねむら】


(近代)明治22年~大正15年の熊毛郡の自治体名。西之表村・住吉村・古田村・安城村・安納村・現和村・伊関村・国上村の8か村が合併して成立。旧村名を継承した8大字を編成。人口は,明治22年1万1,674人,うち西之表6,219人・住吉1,100人・古田358人・安城720人・安納751人・現和1,371人・伊関259人・国上896人,同41年1万3,645人,大正14年1万9,307人。明治19年と20年の2度にわたり,甑(こしき)島より移住者1,844人が村内各地に入植,また大正3年,桜島より罹災者2,193人が同じく村内各地に入植した。なお島外よりの移住者は,これ以外にも数十例を数える。産業では水産の振興が目立つ。明治41年の漁業戸数のうち専業145戸・兼業268戸,専業漁戸は他には中種子村の12戸のみである。漁業従事者は採藻業を含めて3,003人。漁獲物はトビウオが1位で,カツオ,サバ,トコブシ(ナガラメ)がこれにつぐ。水産製品には,飛魚の乾物,鰹節,煮乾鮑がある。種子島特産の種子鋏は,すべて当村の西之表で製造され,明治41年の生産は1万2,000本。同年の農産物は,米1万2,350石・甘藷210万貫・繭440石。官公衙としては,明治28年裁判所種子島出張所,同29年収税署が西之表に開設され,同30年西之表の北種子郵便局が電信事務を開始した。さらに,同31年煙草葉専売所,同36年鹿児島樟脳事務局,同37年鹿児島専売支局の出張所,同38年鹿児島塩務局の出張所が西之表に開設され,同40年には鹿児島高農牧場が西之表の横山に開設された。第88大区制下の村ごとに小学校が開設された。明治23年,公立種子島学校が尋常中学校3年までの授業を始め,同35年には,村立女子実業補習学校が設立された。同36年には私立種子島学校が,郡立種子島農林学校となり,大正15年には,県立第一鹿児島中学校分校が西之表に開校した。明治35~36年に島の縦貫道が,岳ノ田・古田・中割を通って野間まで開通,札の辻から10丁ごとに丁場が置かれ,現在地名として残る。大正14年1月5日早暁,西町の養豚家より出火,折からの強い西風で燃え広がり,午後4時頃鎮火。罹災戸数112・罹災民573。損害額は80万8,600円。この時の島内外よりの義捐の金品は村役場受付けが米33石5斗・金5,383円。鹿児島新聞社扱が金2,376円,鹿児島朝日新聞社扱が金1,125円であった。復興には村起債8万円が認可され,住宅組合が結成された。大正15年町制施行にあたり,当村から内務大臣に提出した「許可申請書」によれば,「本村は種子島の主脳を占め,現在戸数が3,937戸,人口1万8,631人を有する大村にして,西之表港を扣え,海陸通運の便あり,其の主邑たる西之表は旧島主家が居城を構えたる地にして,藩政時代より,鹿児島とは勿論,油津・細島・長崎・島原等九州沿岸を初め,遠く大阪・沖縄・南洋等との間に交易盛んに行われ,文学亦旺なりしを以て,薩藩内に於ては日向の都城と比肩したる名邑とす。現在戸数は,接続集落を併せ1,530戸に達し,郡役所・警察署・税務署・専売局出張所・鹿児島区裁判所出張所・郵便局・十五銀行出張所・鹿児島銀行支店・種子島電気株式会社等あり,種子島を縦貫する道路は,西之表を起点として,北は国上区浦田へ至るべく,南は中種子村野間・南種子村上中を経て同村島間に通ずべし」とある。同年町制施行,同時に西之表町と改称。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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